SSブログ

4月29日(2) ニース〜バスティア Nice-Bastia [Corsica]



無事フェリー乗り場までたどりつく。間に合ってほっとひと息。大きなフェリーだ。おなかが空いていたので、船内に入ってまずスパゲテリアを見つけ、そこで食事にする。見るからにまずそうなカルボナーラと、おばさんに勧められるがままにビールを頼む。見た目通り、本当にまずいカルボナーラを、ビールで流し込む。他の人の様子を見ていると、さすがのフランス人にも残している人がいる。
 


 

デッキに出て、大陸になごりを惜しむ。本当に日差しが強い。その一方で、風は少しひんやりするほど涼しい。他の人もそうしているように、壁にもたれて座ったり横になると、ウトウトとうたた寝をしてしまう。気がつくと肌がヒリヒリしている。しかし、なんとも退屈だ。地中海はどうしてそうなのかが不思議なくらいに、まるで波がない。真っ平らな水面が延々と続いている。船内に戻ると、やはりそこにも退屈そうな人の群れがある。外観は豪華だったが、中身は何ということもない。例のスパゲテリア、カフェテリア、ジェラテリア、ちょっと高いレストラン。そんなもんしかない。頭上のスピーカーから流れる80sが無意味に騒々しい雰囲気を醸し出している。いよいよマイケル・ジャクソンのベスト盤までかかり始めた。地中海の船旅、こういうものか。
 

 

どこの国でも旅行する子ども連れの家族というのは決して上品なものではないが、この船内であまり子どもがうるさく騒がないのは何故であろうか、気になった。日本人の子どもは育て方が悪いのか、それとも遺伝子がそうさせているのか。そんなオリコウな子どもの顔を見て、横にいる中年の親たちの力の抜けた容姿とを見比べてみると、成長していくことがむしろ可哀想に思えてしまう。

船旅は5時間ほどに及ぶ。バスティアに着くのは結構遅い。店が閉まっていて食いそびれてはいけないと、船内で2回目の食事をとる。今度はカフェテリアにチャレンジ。野菜を採っておきたかったので、付け合わせの野菜のありそうなものを頼む。白身魚のムニエルか何かと思って頼んだものは、鶏のナゲットの原料を薄く伸ばして焼いたような代物だった。それと、とっさに間違って"oui"と言ってしまいテンコ盛りにされた"フレンチ"フライ。そしてお目当ての温野菜。見た目は悪くない。しかし、鶏のカマボコ焼きは、どうやったらこうなるのかわからないほど、粉と油にまみれ、不味かった。野菜も明らかに、味付けもせずに冷凍野菜を不器用に戻しただけ。「ポール・セローの大地中海旅行」に出て来た、トルコのクルーズシップのエピソードを思い出す。しかし、完食しておいた。
 



チキンと格闘している間に、気がつけばコルシカ島の最北部、コルシカ岬が窓越しに見えている。その東側を南へ進む。まさに山だ。薄く、かつ高く、屏風のように連なる山がいつまでも続いている。どこに人の住む余地があるのかと思わせる、急峻な地形だ。しかし、傾き始めた太陽が山陰に隠れると、山肌に沿って薄くかかる霧の合間から、驚くべき数の家が見えて来た。遠くからは山の斜面しかわからなかったところに、家がへばりついている。これらすべてがもともとのコルシカ人の集落ではない。観光というものが中産階級のものとなったここ数十年の間に、それまで数千年以上生産力・経済的価値の乏しく、人口が希薄だったコルシカの風景を大きく変えた、フランス人、もしくは他の大陸人たちの別荘がその正体である。
 

 

いよいよバスティアに到着。目の前に現れた旧市街地は、船上の目線で見るとまるでスラムのよう。塗装のはげた建物が幾重にも連なっている。その背後にはやはり急峻な山並みが迫っている。出迎えの人を見つけて喜びの表情を見せる他の乗客の傍らで、異境にただ一人の僕には不安がよぎる。
 



 

街を歩いてみると、意外と清潔感が漂う。フランスらしさなのか。それとも観光地らしさなのか。しかし、恐れていた事態が発生した。どこも宿がいっぱいなのだ。フェリーの入った新市街から旧市街に向けて一軒一軒、高いところから安いところまでしらみつぶしに回っていくが空いていない。暗闇がどうにも迫って来る。今日は野宿をして、事によっては陰険なフランス警察にでも捕まることもあろうかという、悪い想像が頭をよぎる。そのとき、勇気を出して飛び込んだ、入り口がスラムのようなビルにある'Forum'という宿に、ようやく空きを発見。中に入るとレセプションは別世界のようで、品よくリノベートされていた。これなら大丈夫だろう。20歳前後の若い女の子2人が店番をしていて、一人は英語が話せた。部屋の準備をするのに20分くらい待てというので、暫しレセプションで待つ。2人で大騒ぎながら掃除をしているのが聞こえて来る。もう8時なのにいまごろメイクとは、どういうホテルなのだろう。部屋に入ると、レセプションとは違いえらくみすぼらしく、ベッドもヘタリが激しかったが、40ユーロだし、野宿を免れただけでも文句は言えまい。近くの部屋に英語圏からの青年が泊まっていて、少しだけ会話をする。しかし、船旅の疲れかホテル探しの緊張か、ひたすら眠かったので、すぐに就寝した。


4月30日(1) バスティア Bastia [Corsica]


 
寝たのが早かったからか、朝6時半頃に目を覚ます。昨夜は暗くてよくわからなかったが、やはり泊まっているホテルを含むこのあたりの建物は、船上から見た「スラム街」そのものであった。古く、特に道に面していない側は外壁等の手入れも決して行き届いているとは言えない。古いと言っても、人々が都市に集住しはじめた19世紀から20世紀初頭のもののようである。中世以来の建造物のように、EUが文化財として美しく修復してくれる事もない。そもそも辺境の貧しかった島のこと、パリとは違って最初からいい建材で建てられている訳でもなさそうだ。アメリカの東海岸から中西部の都市でも、1世紀程前、急増する労働者向けに作り急いだような煉瓦作りの建物が、いま雁首を並べなすすべもなく荒んでいるのが目につくことがある。日本では、これまで木造のそれが多かったがために、住宅はスクラップ&ビルドの対象だった。しかし、もはや多くの建物はコンクリートになっている。作ってしまった都市をどうするのか、これまでとは違う試みが要求されそうである。

さてここバスティアは、ジェノバ人がコルシカを治めていた中世より18世紀までの時代、すでにコルシカの中心都市として栄えていた町である。背後の切り立った山が小さな湾を抱きながら海へと落ち込むその地形は、天然の良港かつ要塞として通商の拠点を築くに好条件であったに違いない(もっともコルシカはどこでも、山がそのまま海に落ち込んでいるようだったが)。それに、ジェノバをはじめイタリアに大変近い。イタリアのリヴォルノ(トスカーナ州)という町へは、ニースへ行く半分もかからない。そう、ナポレオンが生まれた前年、1768年までは、ここはフランスではなかったのだ。かといって「イタリア領」だったということではなく、そもそも統一イタリアという国家は存在していない当時、都市国家のピサ(13世紀以前)やジェノバの支配下に置かれていた。いまは島第1の都市の地位を、フランス側に面しているアジャクシオに譲っているが、それでも第2の都市であるとともに、オート・コルス(上コルシカ)県の県庁所在地になっている。もっとも人口が急激に膨張したのは、コルシカに観光産業が入って来たここ3〜40年ほどだという。そのあたりの事情はレヌッチ「コルシカ島」(白水社)に詳しい。
 



 

7時半頃から外へ出て、ぶらぶらと歩く。まだシーズン前ではあったが、観光産業がこの町を確実に潤している事は、通りに連なる土産物屋やブランド品のショップからもよくわかる。急な坂を上り、まずはCitadelleにたどり着く。ジェノバ人の要塞都市が残るエリアだ。城門はなぜか、フランスに帰属した当時の、ルイ16世の治世を讃えている。中に入ると、まだ早朝だとはいえ、極めて陰気な気配が漂っている。いる人も、何か警戒心が強そうな表情だ。自分が中世や近代初期に生まれて来なかったことを、心から幸せに思う。リノベートされている建物も多いようだが、人が住んでいる建物とて、埃っぽく黒ずんだ暗い階段が開いた扉の奥にあったりするのを見るにつけ、居住空間として決して良いもののようには思えない。カテドラルの前には、ビクトル・ユーゴーが2年ほど過ごしたという家が残されていた。ミゼラブルだ。
 


 (右手正面奥がユーゴーの旧宅)

城壁に囲まれた狭い空間の中にも、急な細い坂道がひしめく。鴨ちゃんがボスニアで、頭上から少女に石を落とされ殺されそうになったと、「鳥頭紀行」か「できるかな」かに書いてあったが、ここではテラコッタの鉢でも落として、外敵の侵入を阻んでいたに違いない。
 


 

Citadelleからは別の道を通って、古港の方へ降りていく。途中、城塞が出来る前からの一番の旧市街というエリアを通る。そもそも急坂に、かなり高層の建物が立っている。すでに歴史の重みに耐えかねてか、あとからつけたコンクリートの梁で生きながらえている建物もある。間近で見あげると、まだ人が住んでいるのに、ものすごい立体廃墟という印象を受けた。旧港はいまはマリーナになっていて、プレジャーボートやヨットが停泊している。マリーナ沿いの整備された遊歩道に面して感じの良いカフェをみつけ、プチデジュネ・コンプレを注文する。ヨット越しに、さっき通って来た旧市街が見える。こうして見ると、何か独特の美しさがある。九龍城、軍艦島。人々が立体廃墟に引かれるのは、いったい何故なのであろうか。
 

 
 

いま街の中心になっている新市街まで行くと、そこはプチパリ。観光客を意識してか、パリバやクレディアグリコールといった銀行までがお洒落なファサードをあてがわれている。広場でたたずんでいると、花売りがやってきたり(独りなんですけど)、宗教の勧誘らしき人がやってたり(フランス語わかりません)。Non, merci(ノーサンキュー)としか言えないので、すべてそれでやり過ごす。


4月30日(2) バスティア〜アジャクシオ  Bastia-Ajaccio [Corsica]

バスティアを起点にコルシカ島北部の諸地域、船からも見たコルシカ岬、カルヴィ・イルルースといった小さな都市、コルシカらしさを残すバラーニュ地方など、簡単に訪れることが出来るならば是非行きたいところではあったが、いずれも公共交通の事情が大変醜い。また、実は困っていた問題がコルシカ島のガイドブック。ジェノバで英語版を入手出来るだろうとタカを括っていたらイタリア語版しか入手出来ず、なんとか格闘するも細かいことがよくわからない。そして今回はコルシカだけでなく、ゴールデンウィークの間にサルデーニャ、それも南部のカリアリまでどんどん下っていかなくてはならない。だからバスティアから、その日のうちに一気にアジャクシオまで南下することにした。

コルシカ鉄道の駅まで歩いて行く。バスティアからはアジャクシオへの本線と、途中から分岐してカルヴィに行く支線が出ているが、もともと小さな駅は人気もなく閑散としている。入り口の脇に貼ってある時刻表を見ていたら、仕事がないのか、それとも働く気がないのかで、街をぶらぶらしているような風体のおじさんに声をかけられる。どうやら何処へ行くのかと聞いているようなので、アジャクシオまで行くと答えた。おじさんのフランス語はさっぱりわからなかったが、「そんな遠く時間がかかるところに行くのか、山の向こうまで大変だな、自分はそんなところまで殆ど行ったことないけどな、まあがんばってな」と言っているような表情だけは読み取れた。
 


 

おんぼろなコルシカ鉄道はいま近代化工事の真っ最中だった。バスティアからは列車が出ていない。途中のCasamozzaというところまで、代行バスに乗せられる。まずはまっすぐ南に向かって海沿いに、それなりに整備された国道を走る。山と並行して、細長い平野が伸びている。大して利用価値もなさそうな草っ原が掘り起こされ、真新しい建物がところどころに立っている。都市が郊外に向けて拡大しているのがよくわかる。何となく、石垣島の現石垣空港のあたり、あるとき訪れたら急にマックスバリューが出来ていた光景を思い出した。山麓には別荘らしき建物がへばりついているのが見える。道沿いには、老人コミュニティのようなコンドミニアムもあった。Marianaというところは、かつてローマ人が拠点を築いた場所なのだが、今では、国道のロータリーの真ん中に、コンクリート製のローマ風の柱のレプリカが安っぽく建てられているようなところだった。そう、さっきからこの道は信号がなく、ロータリーが多い。これがフランス式なのか。Lucianoというところまで来ると、線路と並行に走るようになった。山は近くなってきていたが、ハワイ島、キラウエア火山から南へと下る道、カウ地方のマウナ・ロアの山麓に広がる灌木と草地のような景色にも見えた。

Casamozzaで、鉄道に乗り換える。出てすぐに、線路は山中へと分け入っていった。「怖い」。ガケ、木。トンネル。その他もろもろがすぐ窓の外真横目の前に迫って来る。心もとない橋を渡る。カーブは半径何メートルなのかわからないくらい。曲がっていく先が見える。安っぽいレール音が響く。旧型ディーゼルカーが物々しい音を上げて進む。見れば、エメラルドグリーンの川が下に流れている。
 





上には、ガケにへばりつく村が見える。別荘ではない、コルシカ人の住み処だ。周囲には何ら産業に与しそうな土地はない。何を生業としてきたのか。山が高く、深い。鉄道に乗り換え、海岸線を離れわずか10分もたたぬうちに、どこかの大陸の国立公園のような山中に入っていた。ここは島じゃなかったのか?灌木の林からは、ほのかに芳香が漂っている気がする。ナポレオンが、コルシカの東隣にあるエルバ島(現イタリア領)に流されたとき、風に乗って流れて来たマキの芳香に、さほど離れていない故郷コルシカのことを懐かしんだという伝説があるそうだ。

あるところで、急に徐行になった。ソロソロと、明らかに慎重に走っている。それまで左右水平だったのが、明らかに片側に車両全体が傾く。車内の客全員が事態に気づき、にわかに緊張感が走る。横転した車内の画を想像する。その間どのくらいだったか。しばらくこらえるようにして走ったあと、また水平に戻った。どうやら道床を失っていたようだ。水害で線路が宙にぶらぶらしているニュース映像のような光景を想像して、改めてぞっとする。ゆっくりであれば、走っても良いものなのだろうか。

Ponte-Lecciaはカルヴィ方面への分岐駅。盆地が広がる向こうに、高い山がそびえる。白い雪を抱いている山も見える。今回の旅、温暖な地中海の島々をめぐる旅をしているはずが、すでにこの風景はひとつの島のそれではない。何より、海の存在を忘れさせられる。海があって山があるという世界ではない。山だけの世界。そういう空気を感じる。
  




  

コルテに到着。ここは、ジェノバ時代に独立運動の拠点となった土地であり、コルシカの心のふるさととされている。丘の上に家々が肩を寄せ合うように立ち、町が築かれているのが、駅からも遠目に見える。近年、コルシカ大学がこの町に設立され、過疎の老人の町だったのが一気に若者の姿が目立つ町へと変貌を遂げたという。
 


 

バイカーやハイカーら観光客ばかりだった車内は、コルテで全員が降りてしまった。やはり、バスティアからアジャクシオまで通しで乗るような酔狂な客はいないのかと思っていたら、僕も運転手にたたき出された。ここからはまた代行バスに乗り換えだった。結局、オンボロ鉄道に乗っていたのは、全行程の1/4ほどでしかなかった。
 



 

この先、コルシカ島を2分する山脈のピークへと向かう。かつては「山のこちら側」と「山のあちら側」地方を分かち、現在はバスティアを中心とする「オートコルス(上コルシカ)県」とアジャクシオを中心とする「コルスデュシュドゥ(南コルシカ)県」を分かつ、2000m級の山々が連なる山脈である。山越えをすべく、おんぼろ鉄道から乗り換えたバスは立派であったが、道はまったく立派ではなかった。がけっぷちのぐにゃぐにゃの道を行く。Vanacoという町は、稜線に沿ってひだのように家々がへばりついていた。大きな谷のはるか向こう側にも村が見える。カスタニッチャと呼ばれるエリアであろうか。かなり山の上の方、なぜか等高線に沿うように、同じ高さ一直線に点々といくつか村が見える。天空の村の人々は、平原から栄誉ある孤立を保っていると言えば聞こえもいいが、おそらくこの地方特産の小さな栗(「カスターニャ」)を主食に、長らく厳しい生活を送っていたに違いない。
 


 

ピークのあたりは針葉樹の峠、5月になろうというのに雪を冠した山が間近に見える。さすがにぐにゃぐにゃの道に疲れてしまい、峠を越えたところでうとうとと寝てしまう。ピークからどのくらい降りて来たものか、しばらくすると、これまでと風景とは明らかに違う、豊かな印象の平野に出た。道路と並走する、動いていない鉄道の駅標は、Campo dell'Oroとあった。なるほど。黄金の土地。山ばかりのコルシカにあって、言い得た名前だ。近くに同名の空港もあるようだ。ほどなく、アジャクシオの郊外に入る。ここはバスティア以上に、観光で急膨張した町だという。ワイキキのクヒオ通りのコンドミニアムを更に作り損なったようなコンクリートの建物が林立している。カルフールもあった。
 


 

さらに市街の中心に進む。駅前でバスを降ろされた。そこから歩いて、イタリア語版の(苦笑)ガイドブックで目をつけていたKallisteというホテルへ向かう。清潔でセンスがよく、大変居心地の良いホテルだった。建物は古いのだろうが、その古い石造りの要素をうまくモチーフに取り込み、現代的リノベートされている。おまけにコインランドリーまである。これは素晴らしい。島横断はやはり疲れたのか、ついその快適なベッドの上に横になる。
 

 

しかし、街はなんだか騒然としている。パトカーがサイレンを鳴らして走り回っている。様子を見に外に出てホテルから少し歩いてみると、通りの真ん中で何かが燃やされているのが、路地ごしに遠目に見える。ホテルの前まで戻ると、更に騒然とした雰囲気になっている。部屋に帰って窓越しに様子を見ることにする。デモだ。

まず、機動隊が盾を持ち身構えて、後ろずさりしながら進んでいる。その後ろをデモ隊がやってきた。Liberta! Liberta! フランス語ではない、コルシカ語でシュプレヒコールしている。コルシカの自治や独立に絡んだもののようだ。威嚇のために、わざとビール瓶を投げて割る者もいる。観光地らしく美しく舗装された大通りに、ガラスの破片が無惨に飛び散る。

しかし、ものすごく真剣そうな面持ちの機動隊に対して、デモの参加者は、どう見ても暴力を面白がっているようにしか見えない。参加者の多くは、欲求不満の、いや単に力の余っている若い男子が中心だ。デモにふさわしい、統一された衣装やハチマキみたいなものも、旗さえもない。そのホリエモンばりにラフなTシャツ姿が、ますます思想性のなさを感じさせる。これだけ観光だけで発展している姿を目の当たりにした者にとっては、自由を叫ばれても尾崎豊の「卒業」と同じくらいに空虚に聞こえてしまう。余計なお世話か。

= omake =


デモのポスター。フランス人のおそらく権力者(袖にトリコロールが入っている)がコルシカ人(ムーア人がそのシンボル)をハンマーで叩いている絵が描かれている。フランス語よりもイタリア語(トスカーナ語)と近接な、コルシカ語で書かれている。アジャクシオ(AJACCIO)はアヤーッチュ(AIACCIU)になっている。uとaは定冠詞(le/il, laに相当)。そこはポルトガル語っぽい。


ホテルにあった映画のプログラム。"JAPANESE STORY"って何?隣はキルビルだし。
 


5月1日 アジャクシオ Ajaccio [Corsica]

ここまで駆け足で来たし、日曜は何かと動くことが難しいこともあり、今日はまる1日アジャクシオに滞在することにしていた。良いホテルで寛げたので、10時くらいまでゆっくり部屋で過ごす。その後、街をぶらつきはじめる。まず、街の中心のツーリストインフォメーションに向かい、地図と、明日乗る予定のバスの時刻表をもらう。さすがここは観光都市だ。英語での意思疎通の容易さに、すっきりしたような拍子抜けしたような。目の前の広場では、日曜の朝市がこの時間でもまだ賑わいをみせていた。何かの獣の肉、田舎風のソーセージやチーズといった、コルシカの野趣あふれる食材も揃っていた。他にお土産ものもいろいろと売っていたが、まだまだこの先旅は長い。軽く冷やかす程度にとどめておく。
 



 

そこから歩いて、ナポレオンの生家がある、より古いエリアに入っていく。旧市街でも通りの1階には観光客向けのレストランなどが入っているが、爽やかさが一気に薄れ、下町っぽい雰囲気が漂う。通りの幅が狭いせいか建物の背が高い上に粗末なせいか。海沿いからほんの一歩踏み込んだだけなのに、光り輝く太陽の力をここではあまり感じない。ナポレオンの生家は路地を入ったところにあったが、それがまるでぱっとしない道で一度通り過ぎてしまう。ようやく発見したが、かなりしょぼい建物だった。周囲も陰気な雰囲気が漂う。野心にあふれるナポレオン青年がこの街を飛び出した気持ちが伝わって来るし、終世戻って来なかったことも理解出来る。
 


NAPOLEON EST NE DANS CETTE MAISON LE XV AOVT M DCC LXIX 
「1769年8月15日ナポレオンはこの家で生まれた」とある。


 
 
この旧市街以外は、フランスに編入されて以後に建設されたと思しき、比較的整然とした街並みである。バスティアをジェノバに例えるならば、アジャクシオはニースの弟分といった風情がある。今日は昨日のデモの余韻はまるでなく、観光客受けのする街に戻っていた。ただ、何か退屈げな空気も漂っていた。
 


旧市街を背後に従えるカテドラル。聖と俗は古くから隣り合わせであったか。


別の場所の路上フリーマーケット
 

この街にはビーチもある。しかし、街からすぐのところのそれは大変狭く、美しいとも言えない。そして旧市街に隣接してCitadelleがあったが、バスティアのそれとは違って城塞が残るのみで、いまは軍の駐屯地として使われていた。その直下にもビーチがある。いかにも酔狂そうなゲイのマッチョやヌーディストの女、バカップルがいたりする。これに混じって、平然とピクニックをしているファミリーがいたりもするのだが。それがフランスというものか、誰もお互いを気にしている様子はない。特筆すべきことは、そのビーチと水着姿を片目に、もう一方で遠くに、白い雪のかぶった山々を同時に拝むことが出来ることである。そう、この街に来る途中に車窓から見て来た山々である。地中海に浮かぶ山、コルシカの本領発揮といったところである。
  


右に見えるのがCitadelle



Citadelle下のビーチ



山並みを背景に市街とビーチを望む 
 

市民の日曜の楽しみはもっぱらビーチより、大きな鉛か何かの球を使って楽しむゲームのようである。見ていて結局ルールがわからなかったが、球を別の球にぶつけて、どうにかする。他の場所では見たこともなく、名前もわからない。ただあまり面白そうなものではなかったので、名前を聞くにはいたらなかった。私の中学校で流行っていた「テニポン」の如き、内輪の熱狂を感じた。
 



 

夜は、楽しみにしていたコルシカの地元料理にチャレンジする。昼間散策していた時に通りかかって、目をつけていた店を訪れる。まだ時間が早かったのか、店は空いている。人の良さそうな店主が出て来て、どこに座ってもいいよと言うのでテラスの席に座らせてもらう。メニューは、ありがたいことに地元の食材を売りにしたプリフィックスになっていた。これに、店主が薦めてくれた地元の赤ワインをオーダーする。実際、ローカルであることをポリシーとしている、志の高い店のようである。僕が入って間もなくして、続々と地元の常連らしき人が入って来た。

前菜は、豆の入ったスープとクレープを巻いたようなもの。スープの方は、金時豆みたいな豆を主役に、なす、にんじん、セロリ、ウド?、オクラ?、じゃがいも、パスタと入っていた。例えるなら、ニューオーリンズのガンボのようなスープ、それでいて香辛料は控えめといった感じか。店主がカタコト英語でパンケーキと言っていたクレープ巻きの方は、リコッタのような感じの、恐らくヤギのチーズにほうれん草を練り込んだ、コルシカ特産のチーズがクレープに巻かれている。これに生のトマトのソースがかけられている。添え物はミントとレタスの一種か、ハーブっぽい葉っぱ。これが2品ともめちゃくちゃ美味い。何と形容したらいいのか、素材あっての味、大地の味。それを、その地の素材を知り尽くした料理人が仕上げている。土地の暮らしと文化が織り込まれているのを感じずにはいられない。パンは、田舎パンらしく外はすごい固さだったが、中はやわらかで香ばしい。
 


 

肉料理は、ラムのロースト。これにベイクドポテトと、レタスが添えられている。こちらは料理法がシンプルなので、珍しいというものではないが、ラムが新鮮きわまりない。もともと羊肉に強い僕ではあるが、いわゆる臭みがほとんどない。さっきまでコルシカの山野にいたやつに違いないなあと、思わず嬉しい想像がよぎる。美味くないはずがない。続いてチーズ。これが大変美味しい。しかし何故このタイミングに、大きなカットのチーズが3切れも。栗と胡桃、いちじくの甘露煮のようなものがその付け合わせに添えられている。栗は急峻な山に育つ地元の栗(カスターニャ)で、日本の感覚から言えば普通の栗(マロン)にように上等なものではなかったが、それゆえ何だか愛おしさを感じさせる味だった。甘いものが出て来たので終わりかと思ったら、なんとまだデザート。アイスに、栗チョコレート煮ソースかけ。さすがにいっぱいいっぱい。チーズは3切れのうち、2切れをそっとポケットに入れてしまった。こんなに満腹の時に食べるにはもったいなさすぎる。

まったくのエトランゼが喜びながら食べているのに気づいたのか、隣の夫婦が美味しいか聞いて来た。旅人が自分の土地のものを美味しそうに食べてくれるのは、どこの人も嬉しいらしい。しかもこの店の味は、彼ら彼女らにとっても誇りに違いない。僕が美味しそうに食べているのには、店主もリップサービスではなく本当に喜んでくれたようだ。最後お別れに、店主やウエートレスの人と固い握手をする。ここでは料理だけではなく、普段表には出てこないコルシカのハートまでもが楽しめた気がした。お腹だけでなく、すべてがいっぱいになった。これからアジャクシオを訪れる人に、是非ともお勧めしたい店である。
 


 

Restaurant Le 20123 (コルシカ料理)
2, rue Roi de Rome, 20000 Ajaccio tel. 04 95 21 50 05
(Place de Gaulleの近く、Cathedraleの裏手にあたる)
 


5月2日(1) アジャクシオ〜ボニファシオ Ajaccio-Bonifacio [Corsica]

コルシカは公共交通がたいへん不便だ。自由旅行者が思いのままに全島を巡ることは大変難しい。ヨーロッパの観光客は、自家用車・レンタカーを利用するか、もしくはパッケージツアーに参加しているようである。今日はこれから島の西海岸を南下しようとするのだが、朝8時半発の次の便が、夕方16時である。目的地のボニファシオまでは4時間かかる。朝の便に乗らない訳にはいかない。
 


 

EuroCorse Voyagesという会社のバスは、ベンツのエンブレムを鼻先にぶら下げてはいるものの、マイクロバスのような代物であった。雰囲気としては公共交通というより有償輸送に近い。これで2往復ということは、1日に30人も乗らないということか。アジャクシオの町を出て暫くすると、4時間かかる訳がわかってきた。道は海沿いを走るかのように見えて、全く山の中へと分け入って行く。カーブがきつい。マイクロバスの席は狭く、日差しは暑く、特に途中のプロプリアノまでの2時間弱は満席。のろまなベンツ君がゼイゼイ喘ぎながら山道を進む中、客はゲロゲロ、ぐったりであった。
 

バス停前の通り。プロプリアノ。
 

プロプリアノと、そのかなり先で東海岸に迂回して経由したポルト・ヴェッキオは、ともに海に面し夏期にはフランス本土とも船で結ばれるがゆえ、か細い古い街全体が観光地に飲み込まれたかのようであった。一方、プロプリアノからさほど離れていない内陸にある少し大きな町サルテーヌは、だいぶ趣が違った。バスティアからアジャクシオまでの山越えの時に通ってきたコルシカ人の村を大きくしたような感じで、やはり山肌に無理にへばりついている。コルシカ人の砦という、観光化された町にはないある種の誇りのような空気が一目で感じ取れる。そんな町だと最初から知っていたら、間違いなくプランに入れておいたところだったのだが、イタリア語のガイドブックしか持っていなかった僕はそこまで事前に把握しておらず、またホテル事情を調べていなかったのでとっさに降りることが出来ず、車窓から眺めるにとどめておいた。


車窓より、サルテーヌの遠景。
 

その後もひたすら南へ、南へ。集落がだんだん少なくなり、本当にこの先に町があり、さらにその先にはサルデーニャ島があることが想像できないくらい、南の果てへと進んでいるようであった。ハワイ島を南下し、最南端のサウスポイントへと下っていくと、その先は遥か3,000キロ先のタヒチまで何もないのだが、そんなことを思い出しながら疎らな風景を眺めていた。Ortoloという川の流域は、比較的広い谷間が広がっているのに、人家がまるでみられない。また山が現れた。もう山はいや、というのが正直なところなのだが、このあたりの山は岩山で、コルシカ中央部の山々とは明らかに違う種類のものだった。サルデーニャと近いことのしるしだろうか。
 



バスに乗り始ってから3時間が近づき、最南(「極南(Extreme Sud)」と言う)のなだらかな台地に出た。Monacciaという村をはじめ、いくつか地元の村に立ち寄りながら、一旦東海岸に出てポルト・ヴェッキオに回り道して、終点のボニファシオへと向かう。島を周回する国道198号線からボニファシオ市街へ分岐する道に入ると、白い断崖のような岩が道の脇に断崖を作っていた。ほどなくしてボニファシオに到着。市街地は半島状の断崖の上にあり、バスはそのたもとにある湾の最深部の岸壁に止まった。
 



 


5月2日(2) ボニファシオ〜サンタテレザ Bonifacio-Santa Teresa di Gallura [Corsica]

人家も疎らな南の果て、要塞都市ボニファシオは驚くべき数の観光客に占拠されていた。どこからこれだけ集まったのか。日本で言うところの「農協観光」のような、フランスの田舎から来たとおぼしき団体客が大勢いる。断崖の下の部分は観光客向けの店が湾に沿って列を成しているだけで、何の風情もない。そこから断崖上の町、ボニファシオの旧市街へと登る。本当に大変な高さで、結構しんどい。友人のH田君なら、間違いなく何かの口実を見つけて、登ることを拒むに違いない。
 



城門へ至る道より、頭上に城門と町を見る。


城門を外側より。


城門を内側より。門を開閉する機構がわかる。
 




断崖上に広がる街。
    

上に登ると、ここが断崖上であることを忘れてしまうくらい、密な中世の街がけっこうな規模で広がっている。町の端はどこも見晴らしがいい。北側は港になっているさっきの湾ごしに、マキの緑とコルシカの山々が遥かに広がっているのが見える。南側は、きらめく青い海と白い断崖の続く海岸線が見える。海の先には、サルデーニャの姿を拝むことができる。コルシカと比べて山が低いのか、べったりとした島影である。
 





町の北側。湾、マキの原野を眺める。
  




町の南側。ボニファシオ海峡とサルデーニャ、島の南端に続く白い断崖。
  

いったん城門から街を出て、東側に少し離れた高台に登り、そこから町の遠景を見る。ガイドブックなどの写真で既に見ていたとはいえ、実物を見ると息を飲む光景である。切り立った崖の上に町、どころではない。浸食で崖がえぐれ海側にそり曲がって立っており、そのえぐれの上に町がある。さっき僕が青い海とサルデーニャの写真を撮っていた町の広場は、明らかに海の上だ。自然の造形と人間の造形の融合が、このような形で実現しうるのかと。いろいろなところを旅するにつれ、自然に対する畏怖が強まる一方で、人が作ったものにいくらか冷淡になっている僕でも、この先人の業績には感嘆せざるを得ない。日当りのいい、気持ちのよい風の吹くその高台で、しばしその風景を眺めながら佇んでいた。
 





 

夕方のフェリーに乗り、コルシカへの別れを告げる。海から見るボニファシオの町は、やはり奇跡のような光景であった。白い断崖、砂色の建物、周囲のマキの緑、遠くに控えるコルシカの山々。これほどまでに幻想的な風景を、ただただ、遠ざかっていくボニファシオの町とコルシカを眺めているしかなかった。
 







 

しかし、船尾にまだ町もくっきり見えるというそのとき、ふと船の舳先の方を見てみると、どっかりとサルデーニャが迫っているではないか。既にコルシカよりもサルデーニャの方が大きくなっている。海峡はわずか11キロ、中間点ではそれぞれに5キロほどの距離でしかないのである。結局コルシカは、そのまま思い出の中へと消え行くこともなく、サルデーニャの港町・サンタテレザ(ディガッルーラ)に着いても、どっしりとその風景の中に居座っていた。
 




サルデーニャ島、サンタテレザディガッルーラを海上から。 
 


サンタテレザディガッルーラよりコルシカを望む。
 


この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。