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イントロダクション [Genaral]

このサイト(ブログ)は、2005年4月から5月のゴールデンウィーク期間中、地中海の中央部、フランスとイタリアの間に浮かぶコルシカ島とサルデーニャ島を個人旅行した際の、出来事や風物そして個人的な感想や思惟を綴った旅行記です。 
 


 

■ 旅行のルート

まず東京から、ミラノ乗り換えでジェノバに入った後、陸路(鉄道)でニースへ。そこから船でコルシカ島北東部の中心都市バスティアへ。次に鉄道と代行バスを乗り継ぎ、南西部にあり島の主都でもあるアジャクシオへ。更にバスで南端のボニファシオ。ここから船で、サルデーニャ島北端のサンタテレザ(・ディ・ガッルーラ)に渡る。北部の中心都市サッサリまで出た後、鉄道でオリスターノ、更には島一番の大都市であるカリアリへ。ここから南にあるプーラにも足を伸ばしています。最後はカリアリからローマ経由で東京へ。基本的には、コルシカからサルデーニャを北から南へ下りて行ったことになります。
  

■ コルシカ島、サルデーニャ島の紹介

コルシカ島は現在フランス領、地中海で4番目に大きな島で、面積は約8,700km²。人口は少なくてわずか約26万人。島の中央には標高2,710mのチント山がそびえるほか、大半が険しい山に覆われ、あたかも海に浮かぶ山脈のような趣のある島です。

一方のサルデーニャ島はイタリア領、地中海でシチリア島に次いで2番目に大きな島で、面積は約24,000 km²。人口もそこそこあって約165万人。中心部は山地が、また沿岸部も特に北部は岩山のような丘陵地が占めるものの、コルシカと比べるとかなり広い平野を有しており、農業に加えて鉱工業も盛んに行われているようです。

参考:ウィキペディア コルシカの方は秀逸な記事に選ばれています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/コルシカ島
http://ja.wikipedia.org/wiki/サルデーニャ島
 


下記、両島を訪れるにあたっての基礎的な情報を簡単にご紹介します。
 

■ 交通:コルシカ島

コルシカ島への交通は、フランス本土からの空路(エールフランスなど)もしくはフランス・イタリア諸都市からの船を利用。夏場の観光シーズンと比べて、秋から春にかけてはぐっと便数が減るため注意。(実はニースに回ったのも、あると思っていたジェノバからのフェリーがなかったため)

Corsica Ferries
http://www.corsicaferries.com
SNCM Societe Nationale Maritime Mediterranee Ferry Corse
http://www.sncm.fr

コルシカ島内の交通は、特に公共交通の整備状況が非常に悪い。バスティアとアジャクシオ/カルヴィの間をコルシカ鉄道が結んでいるが、2005年5月現在軌道設備の更新工事中で、一部区間しか営業していない。このため、代行バスを利用することになるので注意が必要です。切符は普通に駅で買います。
その他のエリアへはバスしかありません。私の訪れたようなシーズンオフには、路線も本数も少なく、バスというよりもワゴンに何時間も乗ることになり。参考までに、アジャクシオからボニファシオに向かうバスを出している会社のリンクを下記に掲載しておきますが、時刻や乗り場など、必ずその町のツーリストインフォメーションで確認すべきでしょう。

コルシカ鉄道(CFC-SNCF, Chemin de fer de la Corse)
http://www.ter-sncf.com/corse/
EuroCorse Voyages(アジャクシオ〜ボニファシオ間)
http://www.eurocorse.net/ind2.htm
 

■ 交通:サルデーニャ島

サルデーニャ島へは飛行機(アリタリア航空ほか各社)、船ともに様々な選択肢があります。また、格安航空券でも、チケットによってはカリアリを日本から/日本への目的地として選ぶことが出来ます。

Moby (イタリア本土との間のほか、コルシカとの航路を持つ)
http://www.moby.it
Sardegna Ferries (Corsica Ferriesと同じサイト)
http://www.corsicaferries.com

島内の公共交通は、コルシカとは比べ物にならないほどに便利です。長距離の移動はTrenitalia(トレニタリア、旧イタリア国鉄FS)が便利でしょう。鉄道の通っていないエリアには、ARSTという公共路線バスで行くことが出来ます。島内を網羅している上に、本数もまずまずあるのですが、バスに乗る前にタバッキ(Tabacchi、タバコ屋)でチケット(ビリエット biglietto)を買う必要があるのでご注意(集落の外れなどタバッキがない場所で乗る場合、タバッキのある最寄りのバス停まで乗せてもらい、そこで購入するまで待ってもらえることがあります)。カリアリ市内は、CTMという路線バスが網の目のように走っています。やはりタバッキを探してチケットを購入するのが面倒なので、1日券(giornaliero)2.10ユーロの利用がおすすめです。

トレニタリア(イタリア国鉄)
http://www.trenitalia.it
ARST(Azienda Regionale Sarda Trasporti、公共路線バス)
http://arst.sardegna.it
CTM(カリアリ市内路線バス)
http://www.ctmcagliari.it
 

■ 便利なサイト(日本語)

それぞれの島を訪れるにあたって、最も参考になるであろうウェブサイトです。情報もリンクも豊富です。私も訪れる前に勉強させていただきました。いずれも勝手リンクで失礼します。

コルシカ島ガイド 日本コルシカ協会ホームページ
http://www1.odn.ne.jp/cah02840/CORSICA/
サルディニア・サルデーニャ・サルジニア情報!domudesayaka.com
http://www.domudesayaka.com
 

■ 事前に読んだ本(日本語)

コルシカ島の歴史や文化など、旅人としてたとえ数日訪れるだけでもその背景を知りたいという向きには、ジャニーヌ・レヌッチ「コルシカ島」が必読です。
サルデーニャ島については決定的な本が残念ながら存在しないようです。このエリアを含めて、地中海を旅するすべての人におすすめなのが、「ポール・セローの大地中海旅行」。皮肉とユーモアたっぷりで爆笑間違いなしの旅行記ですが、その裏にある筆者の知性を感じさせられずにはいられません。
私が行けなかったバルーミニなど、サルデーニャの古代文化については、陣内秀信「南イタリアへ」がとっつきやすいでしょう。
 

コルシカ島

コルシカ島

  • 作者: ジャニーヌ レヌッチ
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 1999/05
  • メディア: 単行本


ポール・セローの大地中海旅行

ポール・セローの大地中海旅行

  • 作者: ポール セロー
  • 出版社/メーカー: NTT出版
  • 発売日: 1998/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


南イタリアへ!―地中海都市と文化の旅

南イタリアへ!―地中海都市と文化の旅

  • 作者: 陣内 秀信
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1999/04
  • メディア: 新書


 

■ ガイドブック(英語)

このエリアだけを紹介した日本語のガイドブックはありません。「フランス」「イタリア」のガイドブックに小さく取り上げられている(もしくは全く取り上げられていない)ことがほとんどです。英語では、Lonely Planetをはじめいくつもあります。私はRough Guideというシリーズを持って行きました。情報量はLonely Planetの方が多いかも知れませんが、Rough Guideは章立てやレイアウトがわかりやすく、デザインに優れていると思います。
 

The Rough Guide to Corsica (Rough Guide Corsica)

The Rough Guide to Corsica (Rough Guide Corsica)

  • 作者: David Abram
  • 出版社/メーカー: Rough Guides
  • 発売日: 2003/03/24
  • メディア: ペーパーバック


The Rough Guide to Sardinia (Rough Guides)

The Rough Guide to Sardinia (Rough Guides)

  • 作者: Robert Andrews
  • 出版社/メーカー: Rough Guides
  • 発売日: 2004/02
  • メディア: ペーパーバック


 
なお本文中にもありますが、現地での英語のガイドブックの購入は難しいため、あらかじめ用意されることをおすすめします。
 


4月27日 東京〜ミラノ〜ジェノバ Tokyo-Milano-Genova [Mainland Italy]


 

ミラノから小さなコミューター機に乗り換え、ジェノバのコロンボ(コロンブス)空港に到着したのは夜も10時すぎ。東京より遅く始まる夕暮れ時が終わり、周囲がすっかり暗くなってからだった。空港と市街を結ぶ3ユーロの路線バスに乗ること15分ほど。あまり治安の良くなさそうな港湾・工業地区を抜け、ネットで予約しておいた"Balbi"というホテルに近いプリンチペ駅まで向かう。駅周辺のバールには若者が路上までたむろっていて、旅の疲れと眠気にとりつかれていた身を不安にさせたが、ただ春の夜を楽しんでいるだけのようだ。少し道に迷いながらもホテルに着く。イタリア都市部の安いホテルの例にもれず、古いビルのワンフロアをリノベートしたものだったが、質素ながら清潔でよくメンテナンスがされており、ひとり旅には申し分ない。いや、ひとりでは持て余す程の広い部屋をあてがわれたほどだった。英語も達者な主人は遅い到着を何もとがめることはなく、スムーズにチェックイン。熱すぎるシャワーに手こずるもなんとか浴びて、1日目の眠りにつく。
 


4月28日 ジェノバ Genova [Mainland Italy]


 

朝起きて、まずはホテルに近いプリンチペ駅の周囲をうろつく。駅は両端をトンネルに遮られ、急坂が迫っている。ジェノバの背後に広がる山の上から街を見てみようと、ホテルでもらったガイドで知った、駅近くから出ているアプト式の電車に乗り、庶民的な街並のなかを上っていく。相当な急斜面にアパートが連なっているのは、香港を彷彿させるものがある。しかしこの電車、「技術上の理由により」すでに2年前から途中駅までの運行となっていた。そこは何の眺望もないところだった。
一度プリンチペ駅まで戻り、今度はホテルと反対側の、Zeccaという広場から出ているfunicolare、ケーブルカーに乗ってみる。出発駅は崖の内部、洞窟のようなところだった。そこから高度300mのRighiへ。眺望はかなり微妙。
 


 

どうしようかと思っていたら、遠足帰りの小学生らしき軍団が、ケーブルカー乗り場にやってきた。さすがイタリアン、子どもでもめちゃくちゃうるさい。小さなケーブルカーに一緒はかなりつらそうだったので、歩いて下山することを思い立つ。下りの道は、明るい稜線伝いに伸びていた。正面に市街地、左手に谷あいの住宅地が広がるところが、タンタラスの丘の道を思い出させる。ホノルルにいた時は東京のことをよく懐かしく思っていたのだけれど、東京のことを暫く忘れようとしてやってきたこの地で、ホノルルのことを思い出すのはどういうことだろう。
 


 

最大30度の急坂。途中、お城のようなものがあったりするところが、都市国家だったころの歴史を感じさせる。道に迷いつつ、1時間ほどで中心部まで戻る。脚がガクガク。

昼食は手頃な店が見つからず、早くもマクドナルドのお世話になる。店内の入ると、キャンペーンのコピーとして、日本と同じようにI'm lovin' itを使っていた。カップに書いてあった商標登録の記述を見ると、どうもフランスや中国などは、I'm lovin' itに相当する自国語を使っているようだ。現代イタリアは日本同様、アメリカ文化の前にアイデンティティの混乱をきたしている。それはレコード屋に行っても強く感じる。クオリティが高く、かつオリジナリティのある音楽がみあたらない。音楽用語を独占することに象徴されるイタリアの音楽の栄光は、現代においては消え失せてしまっている。

夕食はイタリアならではのものを食べようと、中心街のちゃんとしたリストランテに入る。オリーブオイル・塩・パセリで和えてある、タコとじゃがいものサラダ。レモンをしぼって食べる。そして、ジェノバ名物のバジルのペストのパスタ。こちらもじゃがいもと、いんげん豆が添えてあった。

30ユーロも払うと、さすがに美味しいものが食べられる。しかし、ステレオタイプな「イタリア的」ハートフルなものを感じさせない。ジェノバというのはそういう街なのか。大都市でもベネチアのように観光で食っている街を除き、そういうものなのかも知れないが。

店ではBGMで、何ごともなかったかのようにミーシャ・パリスのmy one temptationがかかっていたのが印象に残った。

=gallery=
 

町中にまでトンネルがある。その上にビルという、垂直的高度空間利用。
 

この街も、いまは山の上が良い住宅地。
 

旧市街地中心の宮殿では、偶然日本の展示会をやっていた。
 

旧市街地は細い路地が行き交う。昼でも真っ暗な通りもある。
居住環境として良い訳がなく、アフリカ・アジア系の移民者のエリアになっているところもあった。
 

夕暮れが近づく。アーチがイタリアらしい。
 

ポルト・アンティコという、いまやどこの港湾都市にもありそうな海辺の再開発エリア。
観光名所という水族館の隣に帆船が置いてあったが、ふざけているのか本気なのかわからない
舳先のオッサンが謎。
 


4月29日(1) ジェノバ〜ニース Genova-Nice [Mainland Italy]

ホテルで前日、チェックインしたときの人がいない時間に、イタリア語しか出来ないおじいさんとやりとりをして借りることが出来たインターネット。コルシカへの船が出る埠頭の正確な位置を確認しようとしたら、なんとジェノバからは季節運航で、この時期は出ていないことが判明する。日本でも同じページを見て、ここまで来たというのにどういうことか。何故そんなミスを犯したのかわからないが、幸い今日午後ニースから出る船があるのを発見する。朝9時にジェノバを発って鉄道でニースまで行き、そこから船に乗るプランに変更した。

チェックアウトの時はまた英語の出来る人だった。ここのスタッフは親切。言うまでもなく、ロケーションも便利だ。駅まで行って、ニース行きのチケットを買う。特急券を含めて、わずか15ユーロ。最初、話が通じてなかったのかと思うほどの安さ。春のリビエラ、3時間ほどの汽車の旅。

観光気分と裏腹に、暫くは工業地帯やら何やらが続く。ジェノバはやっぱり観光地というよりも、商工業都市という印象の強いところだった。滞在中は地中海らしからぬ曇りがちであったが、これは地形的な要因もあるのではないかと思った。曇っていては観光地に向かない。暫し、急峻な山と海に挟まれた猫の額ほどの土地に、人の生活にかかわるあらゆるものを詰め込んだ光景が続く。日本に通じる景観だ。

だんだんと工業的なものがなくなってきたあたりで、線路が複線から単線になった。Findeという駅を過ぎると、海に面して走るようになり、急速にリゾート地の気配が濃厚になって来た。それまで目についていた、いかにもイタリア的な、アパートの合間にはためく洗濯物の姿が目立たなくなってくる。そもそも建物自体がきれいだ。ビーチは灰色の砂、もしくは粗い礫のように見える。Albengaというあたりで、ぽっかりと平野に入る。この行程で初めて大きな畑を端かに見る。花卉類の栽培もしていて、見てもきれい。

しばらくすると再び山がちになる。線形が異様に悪く、台車がきしむ音をたてながら、トンネルと集落を交互に走り抜けていく。Alassioというところまで来ると、いよいよリゾートとらしくなってきた。荒々しい山肌、灌木、さざ波の地中海。ハワイやフロリダ・カリフォルニアの古いスタイルのコンドミニアムのようなものも、海沿いに並んでいる。

Imperiaというところは、かなり規模の大きい街のようだった。ローマ風の石積みの館が見える。続いて、San Remoという、イタリアン・リビエラでは耳にしたことのある街に到着。しかし地下駅。なんだか損をした感じだ。そしていよいよ、イタリア・フランス国境のVentimigliaに到着。車内では乗務員が交代し、急にフランス語のアナウンスが始まる。
 

 
その後も同じような山間のリゾートが続く。いよいよ間もなくモナコだ。トンネルに入る。列車がスピードを落とし始める。車窓から、カジノや、モナコグランプリのコースは見えるだろうかと、期待が膨らむ。止まった。なんとモナコも地下駅だった。駅だけでなく、モナコ領内はすべて地下。まったくその姿を見ることは出来なかった。しかしこのモナコ駅は、ホームだけでも驚くほど洗練されたものだった。庶民的なイタリアからわずか数キロだと言うのに、ここだけ何十年も進んでいるような印象を受けた。
 


 

列車の終点ニースに到着。結構大都市のはずなのに、雑然とした雰囲気は皆無。表通りだけかも知れないが、排気ガスに煤け、壁のはがれそうな手入れの悪い建物がまるで目につかない。めちゃくちゃ爽やかでこじゃれている。これがコート・ダジュールというものか。恵まれた気候の地に、パリを持って来たかのような洗練。ここがフランス領になったのは1860年。その少し前にカリフォルニアがメキシコから割譲され、今ではメキシコとの間に高い国境が成立したのと同様に、わずか150年の間にニッツァ(ニースのイタリア読み)はずいぶんとイタリアから引き離されたように思える。
 



 

照りつける地中海の太陽を浴びながら、歩いてフェリー乗り場に向かう。5キロほどあっただろうか。ジェノバのダウンヒルで痛くなった脚が、また痛みだす。何故この緯度でこの日差しなのか、本当にわからないほどの太陽の輝き。大きな砂利の浜辺では、結構ご年配の方までビキニで焼きまくっている姿が遠目に見える。今回ニースには泊まらなかったが、非常に美しいところだと思う反面、ここに泊まるのはもっと歳をとってからでも良いのではないかとも思った。およそ人生のことがわかった後で、およそお互いのことがわかりあった関係の人と滞在する。そんな旅が似合う場所ではないかと。
 


4月29日(2) ニース〜バスティア Nice-Bastia [Corsica]



無事フェリー乗り場までたどりつく。間に合ってほっとひと息。大きなフェリーだ。おなかが空いていたので、船内に入ってまずスパゲテリアを見つけ、そこで食事にする。見るからにまずそうなカルボナーラと、おばさんに勧められるがままにビールを頼む。見た目通り、本当にまずいカルボナーラを、ビールで流し込む。他の人の様子を見ていると、さすがのフランス人にも残している人がいる。
 


 

デッキに出て、大陸になごりを惜しむ。本当に日差しが強い。その一方で、風は少しひんやりするほど涼しい。他の人もそうしているように、壁にもたれて座ったり横になると、ウトウトとうたた寝をしてしまう。気がつくと肌がヒリヒリしている。しかし、なんとも退屈だ。地中海はどうしてそうなのかが不思議なくらいに、まるで波がない。真っ平らな水面が延々と続いている。船内に戻ると、やはりそこにも退屈そうな人の群れがある。外観は豪華だったが、中身は何ということもない。例のスパゲテリア、カフェテリア、ジェラテリア、ちょっと高いレストラン。そんなもんしかない。頭上のスピーカーから流れる80sが無意味に騒々しい雰囲気を醸し出している。いよいよマイケル・ジャクソンのベスト盤までかかり始めた。地中海の船旅、こういうものか。
 

 

どこの国でも旅行する子ども連れの家族というのは決して上品なものではないが、この船内であまり子どもがうるさく騒がないのは何故であろうか、気になった。日本人の子どもは育て方が悪いのか、それとも遺伝子がそうさせているのか。そんなオリコウな子どもの顔を見て、横にいる中年の親たちの力の抜けた容姿とを見比べてみると、成長していくことがむしろ可哀想に思えてしまう。

船旅は5時間ほどに及ぶ。バスティアに着くのは結構遅い。店が閉まっていて食いそびれてはいけないと、船内で2回目の食事をとる。今度はカフェテリアにチャレンジ。野菜を採っておきたかったので、付け合わせの野菜のありそうなものを頼む。白身魚のムニエルか何かと思って頼んだものは、鶏のナゲットの原料を薄く伸ばして焼いたような代物だった。それと、とっさに間違って"oui"と言ってしまいテンコ盛りにされた"フレンチ"フライ。そしてお目当ての温野菜。見た目は悪くない。しかし、鶏のカマボコ焼きは、どうやったらこうなるのかわからないほど、粉と油にまみれ、不味かった。野菜も明らかに、味付けもせずに冷凍野菜を不器用に戻しただけ。「ポール・セローの大地中海旅行」に出て来た、トルコのクルーズシップのエピソードを思い出す。しかし、完食しておいた。
 



チキンと格闘している間に、気がつけばコルシカ島の最北部、コルシカ岬が窓越しに見えている。その東側を南へ進む。まさに山だ。薄く、かつ高く、屏風のように連なる山がいつまでも続いている。どこに人の住む余地があるのかと思わせる、急峻な地形だ。しかし、傾き始めた太陽が山陰に隠れると、山肌に沿って薄くかかる霧の合間から、驚くべき数の家が見えて来た。遠くからは山の斜面しかわからなかったところに、家がへばりついている。これらすべてがもともとのコルシカ人の集落ではない。観光というものが中産階級のものとなったここ数十年の間に、それまで数千年以上生産力・経済的価値の乏しく、人口が希薄だったコルシカの風景を大きく変えた、フランス人、もしくは他の大陸人たちの別荘がその正体である。
 

 

いよいよバスティアに到着。目の前に現れた旧市街地は、船上の目線で見るとまるでスラムのよう。塗装のはげた建物が幾重にも連なっている。その背後にはやはり急峻な山並みが迫っている。出迎えの人を見つけて喜びの表情を見せる他の乗客の傍らで、異境にただ一人の僕には不安がよぎる。
 



 

街を歩いてみると、意外と清潔感が漂う。フランスらしさなのか。それとも観光地らしさなのか。しかし、恐れていた事態が発生した。どこも宿がいっぱいなのだ。フェリーの入った新市街から旧市街に向けて一軒一軒、高いところから安いところまでしらみつぶしに回っていくが空いていない。暗闇がどうにも迫って来る。今日は野宿をして、事によっては陰険なフランス警察にでも捕まることもあろうかという、悪い想像が頭をよぎる。そのとき、勇気を出して飛び込んだ、入り口がスラムのようなビルにある'Forum'という宿に、ようやく空きを発見。中に入るとレセプションは別世界のようで、品よくリノベートされていた。これなら大丈夫だろう。20歳前後の若い女の子2人が店番をしていて、一人は英語が話せた。部屋の準備をするのに20分くらい待てというので、暫しレセプションで待つ。2人で大騒ぎながら掃除をしているのが聞こえて来る。もう8時なのにいまごろメイクとは、どういうホテルなのだろう。部屋に入ると、レセプションとは違いえらくみすぼらしく、ベッドもヘタリが激しかったが、40ユーロだし、野宿を免れただけでも文句は言えまい。近くの部屋に英語圏からの青年が泊まっていて、少しだけ会話をする。しかし、船旅の疲れかホテル探しの緊張か、ひたすら眠かったので、すぐに就寝した。


4月30日(1) バスティア Bastia [Corsica]


 
寝たのが早かったからか、朝6時半頃に目を覚ます。昨夜は暗くてよくわからなかったが、やはり泊まっているホテルを含むこのあたりの建物は、船上から見た「スラム街」そのものであった。古く、特に道に面していない側は外壁等の手入れも決して行き届いているとは言えない。古いと言っても、人々が都市に集住しはじめた19世紀から20世紀初頭のもののようである。中世以来の建造物のように、EUが文化財として美しく修復してくれる事もない。そもそも辺境の貧しかった島のこと、パリとは違って最初からいい建材で建てられている訳でもなさそうだ。アメリカの東海岸から中西部の都市でも、1世紀程前、急増する労働者向けに作り急いだような煉瓦作りの建物が、いま雁首を並べなすすべもなく荒んでいるのが目につくことがある。日本では、これまで木造のそれが多かったがために、住宅はスクラップ&ビルドの対象だった。しかし、もはや多くの建物はコンクリートになっている。作ってしまった都市をどうするのか、これまでとは違う試みが要求されそうである。

さてここバスティアは、ジェノバ人がコルシカを治めていた中世より18世紀までの時代、すでにコルシカの中心都市として栄えていた町である。背後の切り立った山が小さな湾を抱きながら海へと落ち込むその地形は、天然の良港かつ要塞として通商の拠点を築くに好条件であったに違いない(もっともコルシカはどこでも、山がそのまま海に落ち込んでいるようだったが)。それに、ジェノバをはじめイタリアに大変近い。イタリアのリヴォルノ(トスカーナ州)という町へは、ニースへ行く半分もかからない。そう、ナポレオンが生まれた前年、1768年までは、ここはフランスではなかったのだ。かといって「イタリア領」だったということではなく、そもそも統一イタリアという国家は存在していない当時、都市国家のピサ(13世紀以前)やジェノバの支配下に置かれていた。いまは島第1の都市の地位を、フランス側に面しているアジャクシオに譲っているが、それでも第2の都市であるとともに、オート・コルス(上コルシカ)県の県庁所在地になっている。もっとも人口が急激に膨張したのは、コルシカに観光産業が入って来たここ3〜40年ほどだという。そのあたりの事情はレヌッチ「コルシカ島」(白水社)に詳しい。
 



 

7時半頃から外へ出て、ぶらぶらと歩く。まだシーズン前ではあったが、観光産業がこの町を確実に潤している事は、通りに連なる土産物屋やブランド品のショップからもよくわかる。急な坂を上り、まずはCitadelleにたどり着く。ジェノバ人の要塞都市が残るエリアだ。城門はなぜか、フランスに帰属した当時の、ルイ16世の治世を讃えている。中に入ると、まだ早朝だとはいえ、極めて陰気な気配が漂っている。いる人も、何か警戒心が強そうな表情だ。自分が中世や近代初期に生まれて来なかったことを、心から幸せに思う。リノベートされている建物も多いようだが、人が住んでいる建物とて、埃っぽく黒ずんだ暗い階段が開いた扉の奥にあったりするのを見るにつけ、居住空間として決して良いもののようには思えない。カテドラルの前には、ビクトル・ユーゴーが2年ほど過ごしたという家が残されていた。ミゼラブルだ。
 


 (右手正面奥がユーゴーの旧宅)

城壁に囲まれた狭い空間の中にも、急な細い坂道がひしめく。鴨ちゃんがボスニアで、頭上から少女に石を落とされ殺されそうになったと、「鳥頭紀行」か「できるかな」かに書いてあったが、ここではテラコッタの鉢でも落として、外敵の侵入を阻んでいたに違いない。
 


 

Citadelleからは別の道を通って、古港の方へ降りていく。途中、城塞が出来る前からの一番の旧市街というエリアを通る。そもそも急坂に、かなり高層の建物が立っている。すでに歴史の重みに耐えかねてか、あとからつけたコンクリートの梁で生きながらえている建物もある。間近で見あげると、まだ人が住んでいるのに、ものすごい立体廃墟という印象を受けた。旧港はいまはマリーナになっていて、プレジャーボートやヨットが停泊している。マリーナ沿いの整備された遊歩道に面して感じの良いカフェをみつけ、プチデジュネ・コンプレを注文する。ヨット越しに、さっき通って来た旧市街が見える。こうして見ると、何か独特の美しさがある。九龍城、軍艦島。人々が立体廃墟に引かれるのは、いったい何故なのであろうか。
 

 
 

いま街の中心になっている新市街まで行くと、そこはプチパリ。観光客を意識してか、パリバやクレディアグリコールといった銀行までがお洒落なファサードをあてがわれている。広場でたたずんでいると、花売りがやってきたり(独りなんですけど)、宗教の勧誘らしき人がやってたり(フランス語わかりません)。Non, merci(ノーサンキュー)としか言えないので、すべてそれでやり過ごす。


4月30日(2) バスティア〜アジャクシオ  Bastia-Ajaccio [Corsica]

バスティアを起点にコルシカ島北部の諸地域、船からも見たコルシカ岬、カルヴィ・イルルースといった小さな都市、コルシカらしさを残すバラーニュ地方など、簡単に訪れることが出来るならば是非行きたいところではあったが、いずれも公共交通の事情が大変醜い。また、実は困っていた問題がコルシカ島のガイドブック。ジェノバで英語版を入手出来るだろうとタカを括っていたらイタリア語版しか入手出来ず、なんとか格闘するも細かいことがよくわからない。そして今回はコルシカだけでなく、ゴールデンウィークの間にサルデーニャ、それも南部のカリアリまでどんどん下っていかなくてはならない。だからバスティアから、その日のうちに一気にアジャクシオまで南下することにした。

コルシカ鉄道の駅まで歩いて行く。バスティアからはアジャクシオへの本線と、途中から分岐してカルヴィに行く支線が出ているが、もともと小さな駅は人気もなく閑散としている。入り口の脇に貼ってある時刻表を見ていたら、仕事がないのか、それとも働く気がないのかで、街をぶらぶらしているような風体のおじさんに声をかけられる。どうやら何処へ行くのかと聞いているようなので、アジャクシオまで行くと答えた。おじさんのフランス語はさっぱりわからなかったが、「そんな遠く時間がかかるところに行くのか、山の向こうまで大変だな、自分はそんなところまで殆ど行ったことないけどな、まあがんばってな」と言っているような表情だけは読み取れた。
 


 

おんぼろなコルシカ鉄道はいま近代化工事の真っ最中だった。バスティアからは列車が出ていない。途中のCasamozzaというところまで、代行バスに乗せられる。まずはまっすぐ南に向かって海沿いに、それなりに整備された国道を走る。山と並行して、細長い平野が伸びている。大して利用価値もなさそうな草っ原が掘り起こされ、真新しい建物がところどころに立っている。都市が郊外に向けて拡大しているのがよくわかる。何となく、石垣島の現石垣空港のあたり、あるとき訪れたら急にマックスバリューが出来ていた光景を思い出した。山麓には別荘らしき建物がへばりついているのが見える。道沿いには、老人コミュニティのようなコンドミニアムもあった。Marianaというところは、かつてローマ人が拠点を築いた場所なのだが、今では、国道のロータリーの真ん中に、コンクリート製のローマ風の柱のレプリカが安っぽく建てられているようなところだった。そう、さっきからこの道は信号がなく、ロータリーが多い。これがフランス式なのか。Lucianoというところまで来ると、線路と並行に走るようになった。山は近くなってきていたが、ハワイ島、キラウエア火山から南へと下る道、カウ地方のマウナ・ロアの山麓に広がる灌木と草地のような景色にも見えた。

Casamozzaで、鉄道に乗り換える。出てすぐに、線路は山中へと分け入っていった。「怖い」。ガケ、木。トンネル。その他もろもろがすぐ窓の外真横目の前に迫って来る。心もとない橋を渡る。カーブは半径何メートルなのかわからないくらい。曲がっていく先が見える。安っぽいレール音が響く。旧型ディーゼルカーが物々しい音を上げて進む。見れば、エメラルドグリーンの川が下に流れている。
 





上には、ガケにへばりつく村が見える。別荘ではない、コルシカ人の住み処だ。周囲には何ら産業に与しそうな土地はない。何を生業としてきたのか。山が高く、深い。鉄道に乗り換え、海岸線を離れわずか10分もたたぬうちに、どこかの大陸の国立公園のような山中に入っていた。ここは島じゃなかったのか?灌木の林からは、ほのかに芳香が漂っている気がする。ナポレオンが、コルシカの東隣にあるエルバ島(現イタリア領)に流されたとき、風に乗って流れて来たマキの芳香に、さほど離れていない故郷コルシカのことを懐かしんだという伝説があるそうだ。

あるところで、急に徐行になった。ソロソロと、明らかに慎重に走っている。それまで左右水平だったのが、明らかに片側に車両全体が傾く。車内の客全員が事態に気づき、にわかに緊張感が走る。横転した車内の画を想像する。その間どのくらいだったか。しばらくこらえるようにして走ったあと、また水平に戻った。どうやら道床を失っていたようだ。水害で線路が宙にぶらぶらしているニュース映像のような光景を想像して、改めてぞっとする。ゆっくりであれば、走っても良いものなのだろうか。

Ponte-Lecciaはカルヴィ方面への分岐駅。盆地が広がる向こうに、高い山がそびえる。白い雪を抱いている山も見える。今回の旅、温暖な地中海の島々をめぐる旅をしているはずが、すでにこの風景はひとつの島のそれではない。何より、海の存在を忘れさせられる。海があって山があるという世界ではない。山だけの世界。そういう空気を感じる。
  




  

コルテに到着。ここは、ジェノバ時代に独立運動の拠点となった土地であり、コルシカの心のふるさととされている。丘の上に家々が肩を寄せ合うように立ち、町が築かれているのが、駅からも遠目に見える。近年、コルシカ大学がこの町に設立され、過疎の老人の町だったのが一気に若者の姿が目立つ町へと変貌を遂げたという。
 


 

バイカーやハイカーら観光客ばかりだった車内は、コルテで全員が降りてしまった。やはり、バスティアからアジャクシオまで通しで乗るような酔狂な客はいないのかと思っていたら、僕も運転手にたたき出された。ここからはまた代行バスに乗り換えだった。結局、オンボロ鉄道に乗っていたのは、全行程の1/4ほどでしかなかった。
 



 

この先、コルシカ島を2分する山脈のピークへと向かう。かつては「山のこちら側」と「山のあちら側」地方を分かち、現在はバスティアを中心とする「オートコルス(上コルシカ)県」とアジャクシオを中心とする「コルスデュシュドゥ(南コルシカ)県」を分かつ、2000m級の山々が連なる山脈である。山越えをすべく、おんぼろ鉄道から乗り換えたバスは立派であったが、道はまったく立派ではなかった。がけっぷちのぐにゃぐにゃの道を行く。Vanacoという町は、稜線に沿ってひだのように家々がへばりついていた。大きな谷のはるか向こう側にも村が見える。カスタニッチャと呼ばれるエリアであろうか。かなり山の上の方、なぜか等高線に沿うように、同じ高さ一直線に点々といくつか村が見える。天空の村の人々は、平原から栄誉ある孤立を保っていると言えば聞こえもいいが、おそらくこの地方特産の小さな栗(「カスターニャ」)を主食に、長らく厳しい生活を送っていたに違いない。
 


 

ピークのあたりは針葉樹の峠、5月になろうというのに雪を冠した山が間近に見える。さすがにぐにゃぐにゃの道に疲れてしまい、峠を越えたところでうとうとと寝てしまう。ピークからどのくらい降りて来たものか、しばらくすると、これまでと風景とは明らかに違う、豊かな印象の平野に出た。道路と並走する、動いていない鉄道の駅標は、Campo dell'Oroとあった。なるほど。黄金の土地。山ばかりのコルシカにあって、言い得た名前だ。近くに同名の空港もあるようだ。ほどなく、アジャクシオの郊外に入る。ここはバスティア以上に、観光で急膨張した町だという。ワイキキのクヒオ通りのコンドミニアムを更に作り損なったようなコンクリートの建物が林立している。カルフールもあった。
 


 

さらに市街の中心に進む。駅前でバスを降ろされた。そこから歩いて、イタリア語版の(苦笑)ガイドブックで目をつけていたKallisteというホテルへ向かう。清潔でセンスがよく、大変居心地の良いホテルだった。建物は古いのだろうが、その古い石造りの要素をうまくモチーフに取り込み、現代的リノベートされている。おまけにコインランドリーまである。これは素晴らしい。島横断はやはり疲れたのか、ついその快適なベッドの上に横になる。
 

 

しかし、街はなんだか騒然としている。パトカーがサイレンを鳴らして走り回っている。様子を見に外に出てホテルから少し歩いてみると、通りの真ん中で何かが燃やされているのが、路地ごしに遠目に見える。ホテルの前まで戻ると、更に騒然とした雰囲気になっている。部屋に帰って窓越しに様子を見ることにする。デモだ。

まず、機動隊が盾を持ち身構えて、後ろずさりしながら進んでいる。その後ろをデモ隊がやってきた。Liberta! Liberta! フランス語ではない、コルシカ語でシュプレヒコールしている。コルシカの自治や独立に絡んだもののようだ。威嚇のために、わざとビール瓶を投げて割る者もいる。観光地らしく美しく舗装された大通りに、ガラスの破片が無惨に飛び散る。

しかし、ものすごく真剣そうな面持ちの機動隊に対して、デモの参加者は、どう見ても暴力を面白がっているようにしか見えない。参加者の多くは、欲求不満の、いや単に力の余っている若い男子が中心だ。デモにふさわしい、統一された衣装やハチマキみたいなものも、旗さえもない。そのホリエモンばりにラフなTシャツ姿が、ますます思想性のなさを感じさせる。これだけ観光だけで発展している姿を目の当たりにした者にとっては、自由を叫ばれても尾崎豊の「卒業」と同じくらいに空虚に聞こえてしまう。余計なお世話か。

= omake =


デモのポスター。フランス人のおそらく権力者(袖にトリコロールが入っている)がコルシカ人(ムーア人がそのシンボル)をハンマーで叩いている絵が描かれている。フランス語よりもイタリア語(トスカーナ語)と近接な、コルシカ語で書かれている。アジャクシオ(AJACCIO)はアヤーッチュ(AIACCIU)になっている。uとaは定冠詞(le/il, laに相当)。そこはポルトガル語っぽい。


ホテルにあった映画のプログラム。"JAPANESE STORY"って何?隣はキルビルだし。
 


5月1日 アジャクシオ Ajaccio [Corsica]

ここまで駆け足で来たし、日曜は何かと動くことが難しいこともあり、今日はまる1日アジャクシオに滞在することにしていた。良いホテルで寛げたので、10時くらいまでゆっくり部屋で過ごす。その後、街をぶらつきはじめる。まず、街の中心のツーリストインフォメーションに向かい、地図と、明日乗る予定のバスの時刻表をもらう。さすがここは観光都市だ。英語での意思疎通の容易さに、すっきりしたような拍子抜けしたような。目の前の広場では、日曜の朝市がこの時間でもまだ賑わいをみせていた。何かの獣の肉、田舎風のソーセージやチーズといった、コルシカの野趣あふれる食材も揃っていた。他にお土産ものもいろいろと売っていたが、まだまだこの先旅は長い。軽く冷やかす程度にとどめておく。
 



 

そこから歩いて、ナポレオンの生家がある、より古いエリアに入っていく。旧市街でも通りの1階には観光客向けのレストランなどが入っているが、爽やかさが一気に薄れ、下町っぽい雰囲気が漂う。通りの幅が狭いせいか建物の背が高い上に粗末なせいか。海沿いからほんの一歩踏み込んだだけなのに、光り輝く太陽の力をここではあまり感じない。ナポレオンの生家は路地を入ったところにあったが、それがまるでぱっとしない道で一度通り過ぎてしまう。ようやく発見したが、かなりしょぼい建物だった。周囲も陰気な雰囲気が漂う。野心にあふれるナポレオン青年がこの街を飛び出した気持ちが伝わって来るし、終世戻って来なかったことも理解出来る。
 


NAPOLEON EST NE DANS CETTE MAISON LE XV AOVT M DCC LXIX 
「1769年8月15日ナポレオンはこの家で生まれた」とある。


 
 
この旧市街以外は、フランスに編入されて以後に建設されたと思しき、比較的整然とした街並みである。バスティアをジェノバに例えるならば、アジャクシオはニースの弟分といった風情がある。今日は昨日のデモの余韻はまるでなく、観光客受けのする街に戻っていた。ただ、何か退屈げな空気も漂っていた。
 


旧市街を背後に従えるカテドラル。聖と俗は古くから隣り合わせであったか。


別の場所の路上フリーマーケット
 

この街にはビーチもある。しかし、街からすぐのところのそれは大変狭く、美しいとも言えない。そして旧市街に隣接してCitadelleがあったが、バスティアのそれとは違って城塞が残るのみで、いまは軍の駐屯地として使われていた。その直下にもビーチがある。いかにも酔狂そうなゲイのマッチョやヌーディストの女、バカップルがいたりする。これに混じって、平然とピクニックをしているファミリーがいたりもするのだが。それがフランスというものか、誰もお互いを気にしている様子はない。特筆すべきことは、そのビーチと水着姿を片目に、もう一方で遠くに、白い雪のかぶった山々を同時に拝むことが出来ることである。そう、この街に来る途中に車窓から見て来た山々である。地中海に浮かぶ山、コルシカの本領発揮といったところである。
  


右に見えるのがCitadelle



Citadelle下のビーチ



山並みを背景に市街とビーチを望む 
 

市民の日曜の楽しみはもっぱらビーチより、大きな鉛か何かの球を使って楽しむゲームのようである。見ていて結局ルールがわからなかったが、球を別の球にぶつけて、どうにかする。他の場所では見たこともなく、名前もわからない。ただあまり面白そうなものではなかったので、名前を聞くにはいたらなかった。私の中学校で流行っていた「テニポン」の如き、内輪の熱狂を感じた。
 



 

夜は、楽しみにしていたコルシカの地元料理にチャレンジする。昼間散策していた時に通りかかって、目をつけていた店を訪れる。まだ時間が早かったのか、店は空いている。人の良さそうな店主が出て来て、どこに座ってもいいよと言うのでテラスの席に座らせてもらう。メニューは、ありがたいことに地元の食材を売りにしたプリフィックスになっていた。これに、店主が薦めてくれた地元の赤ワインをオーダーする。実際、ローカルであることをポリシーとしている、志の高い店のようである。僕が入って間もなくして、続々と地元の常連らしき人が入って来た。

前菜は、豆の入ったスープとクレープを巻いたようなもの。スープの方は、金時豆みたいな豆を主役に、なす、にんじん、セロリ、ウド?、オクラ?、じゃがいも、パスタと入っていた。例えるなら、ニューオーリンズのガンボのようなスープ、それでいて香辛料は控えめといった感じか。店主がカタコト英語でパンケーキと言っていたクレープ巻きの方は、リコッタのような感じの、恐らくヤギのチーズにほうれん草を練り込んだ、コルシカ特産のチーズがクレープに巻かれている。これに生のトマトのソースがかけられている。添え物はミントとレタスの一種か、ハーブっぽい葉っぱ。これが2品ともめちゃくちゃ美味い。何と形容したらいいのか、素材あっての味、大地の味。それを、その地の素材を知り尽くした料理人が仕上げている。土地の暮らしと文化が織り込まれているのを感じずにはいられない。パンは、田舎パンらしく外はすごい固さだったが、中はやわらかで香ばしい。
 


 

肉料理は、ラムのロースト。これにベイクドポテトと、レタスが添えられている。こちらは料理法がシンプルなので、珍しいというものではないが、ラムが新鮮きわまりない。もともと羊肉に強い僕ではあるが、いわゆる臭みがほとんどない。さっきまでコルシカの山野にいたやつに違いないなあと、思わず嬉しい想像がよぎる。美味くないはずがない。続いてチーズ。これが大変美味しい。しかし何故このタイミングに、大きなカットのチーズが3切れも。栗と胡桃、いちじくの甘露煮のようなものがその付け合わせに添えられている。栗は急峻な山に育つ地元の栗(カスターニャ)で、日本の感覚から言えば普通の栗(マロン)にように上等なものではなかったが、それゆえ何だか愛おしさを感じさせる味だった。甘いものが出て来たので終わりかと思ったら、なんとまだデザート。アイスに、栗チョコレート煮ソースかけ。さすがにいっぱいいっぱい。チーズは3切れのうち、2切れをそっとポケットに入れてしまった。こんなに満腹の時に食べるにはもったいなさすぎる。

まったくのエトランゼが喜びながら食べているのに気づいたのか、隣の夫婦が美味しいか聞いて来た。旅人が自分の土地のものを美味しそうに食べてくれるのは、どこの人も嬉しいらしい。しかもこの店の味は、彼ら彼女らにとっても誇りに違いない。僕が美味しそうに食べているのには、店主もリップサービスではなく本当に喜んでくれたようだ。最後お別れに、店主やウエートレスの人と固い握手をする。ここでは料理だけではなく、普段表には出てこないコルシカのハートまでもが楽しめた気がした。お腹だけでなく、すべてがいっぱいになった。これからアジャクシオを訪れる人に、是非ともお勧めしたい店である。
 


 

Restaurant Le 20123 (コルシカ料理)
2, rue Roi de Rome, 20000 Ajaccio tel. 04 95 21 50 05
(Place de Gaulleの近く、Cathedraleの裏手にあたる)
 


5月2日(1) アジャクシオ〜ボニファシオ Ajaccio-Bonifacio [Corsica]

コルシカは公共交通がたいへん不便だ。自由旅行者が思いのままに全島を巡ることは大変難しい。ヨーロッパの観光客は、自家用車・レンタカーを利用するか、もしくはパッケージツアーに参加しているようである。今日はこれから島の西海岸を南下しようとするのだが、朝8時半発の次の便が、夕方16時である。目的地のボニファシオまでは4時間かかる。朝の便に乗らない訳にはいかない。
 


 

EuroCorse Voyagesという会社のバスは、ベンツのエンブレムを鼻先にぶら下げてはいるものの、マイクロバスのような代物であった。雰囲気としては公共交通というより有償輸送に近い。これで2往復ということは、1日に30人も乗らないということか。アジャクシオの町を出て暫くすると、4時間かかる訳がわかってきた。道は海沿いを走るかのように見えて、全く山の中へと分け入って行く。カーブがきつい。マイクロバスの席は狭く、日差しは暑く、特に途中のプロプリアノまでの2時間弱は満席。のろまなベンツ君がゼイゼイ喘ぎながら山道を進む中、客はゲロゲロ、ぐったりであった。
 

バス停前の通り。プロプリアノ。
 

プロプリアノと、そのかなり先で東海岸に迂回して経由したポルト・ヴェッキオは、ともに海に面し夏期にはフランス本土とも船で結ばれるがゆえ、か細い古い街全体が観光地に飲み込まれたかのようであった。一方、プロプリアノからさほど離れていない内陸にある少し大きな町サルテーヌは、だいぶ趣が違った。バスティアからアジャクシオまでの山越えの時に通ってきたコルシカ人の村を大きくしたような感じで、やはり山肌に無理にへばりついている。コルシカ人の砦という、観光化された町にはないある種の誇りのような空気が一目で感じ取れる。そんな町だと最初から知っていたら、間違いなくプランに入れておいたところだったのだが、イタリア語のガイドブックしか持っていなかった僕はそこまで事前に把握しておらず、またホテル事情を調べていなかったのでとっさに降りることが出来ず、車窓から眺めるにとどめておいた。


車窓より、サルテーヌの遠景。
 

その後もひたすら南へ、南へ。集落がだんだん少なくなり、本当にこの先に町があり、さらにその先にはサルデーニャ島があることが想像できないくらい、南の果てへと進んでいるようであった。ハワイ島を南下し、最南端のサウスポイントへと下っていくと、その先は遥か3,000キロ先のタヒチまで何もないのだが、そんなことを思い出しながら疎らな風景を眺めていた。Ortoloという川の流域は、比較的広い谷間が広がっているのに、人家がまるでみられない。また山が現れた。もう山はいや、というのが正直なところなのだが、このあたりの山は岩山で、コルシカ中央部の山々とは明らかに違う種類のものだった。サルデーニャと近いことのしるしだろうか。
 



バスに乗り始ってから3時間が近づき、最南(「極南(Extreme Sud)」と言う)のなだらかな台地に出た。Monacciaという村をはじめ、いくつか地元の村に立ち寄りながら、一旦東海岸に出てポルト・ヴェッキオに回り道して、終点のボニファシオへと向かう。島を周回する国道198号線からボニファシオ市街へ分岐する道に入ると、白い断崖のような岩が道の脇に断崖を作っていた。ほどなくしてボニファシオに到着。市街地は半島状の断崖の上にあり、バスはそのたもとにある湾の最深部の岸壁に止まった。
 



 


5月2日(2) ボニファシオ〜サンタテレザ Bonifacio-Santa Teresa di Gallura [Corsica]

人家も疎らな南の果て、要塞都市ボニファシオは驚くべき数の観光客に占拠されていた。どこからこれだけ集まったのか。日本で言うところの「農協観光」のような、フランスの田舎から来たとおぼしき団体客が大勢いる。断崖の下の部分は観光客向けの店が湾に沿って列を成しているだけで、何の風情もない。そこから断崖上の町、ボニファシオの旧市街へと登る。本当に大変な高さで、結構しんどい。友人のH田君なら、間違いなく何かの口実を見つけて、登ることを拒むに違いない。
 



城門へ至る道より、頭上に城門と町を見る。


城門を外側より。


城門を内側より。門を開閉する機構がわかる。
 




断崖上に広がる街。
    

上に登ると、ここが断崖上であることを忘れてしまうくらい、密な中世の街がけっこうな規模で広がっている。町の端はどこも見晴らしがいい。北側は港になっているさっきの湾ごしに、マキの緑とコルシカの山々が遥かに広がっているのが見える。南側は、きらめく青い海と白い断崖の続く海岸線が見える。海の先には、サルデーニャの姿を拝むことができる。コルシカと比べて山が低いのか、べったりとした島影である。
 





町の北側。湾、マキの原野を眺める。
  




町の南側。ボニファシオ海峡とサルデーニャ、島の南端に続く白い断崖。
  

いったん城門から街を出て、東側に少し離れた高台に登り、そこから町の遠景を見る。ガイドブックなどの写真で既に見ていたとはいえ、実物を見ると息を飲む光景である。切り立った崖の上に町、どころではない。浸食で崖がえぐれ海側にそり曲がって立っており、そのえぐれの上に町がある。さっき僕が青い海とサルデーニャの写真を撮っていた町の広場は、明らかに海の上だ。自然の造形と人間の造形の融合が、このような形で実現しうるのかと。いろいろなところを旅するにつれ、自然に対する畏怖が強まる一方で、人が作ったものにいくらか冷淡になっている僕でも、この先人の業績には感嘆せざるを得ない。日当りのいい、気持ちのよい風の吹くその高台で、しばしその風景を眺めながら佇んでいた。
 





 

夕方のフェリーに乗り、コルシカへの別れを告げる。海から見るボニファシオの町は、やはり奇跡のような光景であった。白い断崖、砂色の建物、周囲のマキの緑、遠くに控えるコルシカの山々。これほどまでに幻想的な風景を、ただただ、遠ざかっていくボニファシオの町とコルシカを眺めているしかなかった。
 







 

しかし、船尾にまだ町もくっきり見えるというそのとき、ふと船の舳先の方を見てみると、どっかりとサルデーニャが迫っているではないか。既にコルシカよりもサルデーニャの方が大きくなっている。海峡はわずか11キロ、中間点ではそれぞれに5キロほどの距離でしかないのである。結局コルシカは、そのまま思い出の中へと消え行くこともなく、サルデーニャの港町・サンタテレザ(ディガッルーラ)に着いても、どっしりとその風景の中に居座っていた。
 




サルデーニャ島、サンタテレザディガッルーラを海上から。 
 


サンタテレザディガッルーラよりコルシカを望む。
 


5月3日(1) サンタテレザ〜ルバーニュ Santa Teresa di Gallura-Lu Bagnu [Sardegna]


 

サンタテレザは正しくは「ガッルーラ地方の」という意味をもって、サンタテレザディガッルーラ と呼ばれる。これまでに回ってきたどの町ともまるで違う雰囲気の町であった。この町のルーツは200年ほど前に遡るそうなのだが、今のように開けはじめたのはサルデーニャで観光産業が勃興した、ここ40年も経っていないほどとのことである。整然とした区画の町並みに、歴史を感じさせないコンクリート作りの低い建物が並ぶその風景は、どこか南米の町を思わせるところもある。観光案内所を擁する中心の広場は、パリという概念を意図的に地方に伝播するかのような重厚なフランス風の市街地整備とは異なり、まるで日本の再開発エリアのような真新しい舗装がなされ、風情は感じられない。何より雰囲気が違うのが人々である。陽気さというかのどかさが、まるでコルシカ人とは違う。近くて遠い11キロである。

この町はなんといっても、ヨーロッパ随一の高級マリンリゾートであるコスタ・ズメラルダ(エメラルド海岸)の西の入口に位置するだけのことはあり、その周囲に、独特の碧い色をたたえた美しいビーチを持っていた。そして砂浜以上に印象的だったのは、それを取り囲む荒々しい崖である。大きな白い岩が重なって連なるところに、岩場と乾燥に強そうな植物が、まさにいま花の季節を迎え、色とりどりに咲き誇っていた。
 



早朝のビーチ。遠くに灰色のコルシカが見える。
 


背の低い植物が、岩場にしっかりと根を張る。
 




静かな水。コルシカからの朝一のフェリーを望む。
 

サンタテレザからコスタ・ズメラルダとは反対方向、北海岸を西へ、サルデーニャ島北部の中心サッサリ行きの路線バスに乗り込む。サルデーニャはコルシカと異なり、公共交通のネットワークが日本の地方並みには整備されている。ここガッルーラ地方は、少し内陸に入っても、海岸にあったのと同じ白く大きな岩がごろごろとあちこちに転がっているのが、車窓から見える。遠くには、その岩を積み上げたような岩山が連なる。コルシカと比べて非常に平坦ではあるが、しかし岩と灌木の平原は不規則にうねりまくっている。コルシカが山の島なら、サルデーニャは丘の島か。いくつか地元の町を迂回しながらバスは走って行くが、ガッルーラ地方はここ数十年の入植地のような、比較的新しい建物で構成された町が多いようである。
 





サルデーニャ最北部、ガッルーラ地方の車窓。
 



カステルサルドを車窓より。
 

ガッルーラを抜けて、バスはカステルサルドという古い町に向かう。岬の先端の小山みたいなところに、色とりどりの積み木をひっくり返したような建物がうずもれている。ここが今日の目的地だ。しかし、昨日物価の高いボニファシオに泊まらなかったのと同様、ここも宿代をケチりたいがために、ガイドブックが薦めている5キロ先の町にあるユースホステルへと、そのままバスに乗って直行した。Lu Bagnuというその町らしきところでバスを降りる。まっすぐ伸びる道路の脇に、まばらに家が建つ。南米の開拓地のような雰囲気のところだ。このエリアの山はガッルーラのそれと違って赤い岩山が多いが、そのためか道路も心なしか赤っぽくに見える。それが赤土の開拓地を思い起こさせるのであろうか。日本で言えば沖縄石垣島の於茂登岳の北側、戦後入植が進んだエリアに感じるものが最も近い。


しかしこの昼下がり人気がなく、どこにホステルがあるのか誰にも聞きようがない。とりあえずバスを降りた方向からカステルサルドの方向に戻って歩いてみる。それらしきものはない。街外れのバールでホステルのある通りの所在を聞いてみる。するとここからウン (1) キロだという。反対方向に歩いてきていた。さっき歩いてきた街道を、再びとぼとぼと歩く。サックの重みがだんだんと堪えてくる。今日はいくらか曇天であったことには救われた。バスを降りた地点を通過し、そのままずっと行くが、それらしき通りは見当たらない。ついに町の反対の端まで来た。通りはあった。そこにはホステルはない。ホステルのアドレスを求めて、その通りを歩く。めちゃくちゃ急な坂になっていく。若者には良いが、これではまるで三十路の来場を拒んでいるかのようである。その非・若者を待ち受けていたのは、評判の良いユースホステルらしく英語の達者な、若い管理人からの、夏のトップシーズンに向けて改装休業中だという、無情な知らせであった。

再び荷物を背負って坂を降りる。いったい何を好んでこんな訓練をしているのか。これから自衛隊に入りたいという訳ではない。普通の三十路ならこんなこと出来ない、これは日々暴飲暴食をつつしみ、健康に留意して生活をしている賜物に違いないと、自分を慰めながら歩いていたら、バス停を通り過ぎるという香ばしいチョンボ((c)鳥頭)までやらかした。

もうカステルサルドに行く気力はすっかり失せてしまった。先を急ごうと、さっき降りたバスと同じ方向、サッサリ行きを待つ。カステルサルドとサッサリの間は、区間便が大変多く1日に16本くらいあるとガイドブックに書いてあったことを信じ、バスを待つが、まったくこない。腹立たしいことにカステルサルド行きはサッサリ以外から来たものを含め、5本も目の前を通過して行った。何ともイタリアの田舎らしい光景、オート三輪に乗ったおじいちゃんも、僕の目の前をトロトロと通過して行った。


 


5月3日(2) ルバーニュ〜サッサリ〜オリスターノ Lu Bagnu-Sassari-Oristano [Sardegna]

結局1時間半ほど待って、ようやくバスが現れた。バスは地元の人で相当混み合っていた。その理由も、車窓を見れば理解できた。ここよりサッサリ側は、サンタテレザ側と違って明らかに開けていた。まだ芽吹いたばかりのブドウ畑、道の両側に広がるオリーブ畑。これまでコルシカでも、サルデーニャに入ってからでも見なかった、豊かな農村風景だ。途中SorsoとSennoriという農産物の集散地らしき町を通ったが、地方の町にしては明らかに大きく、そして古い。土地の肥沃さの違いが生産力、つまり涵養する人口の違いにつながり、歴史をも変えるということを目の当たりにさせられる。もっとも、それら古い町は、路地に腰の曲がった老婆の姿が見られるあたり、日本の地方小都市同様にさびれた空気を漂わせつつあり、現代において住むにはあまり快適そうではなかったが。
 


 

サッサリのバスターミナルにつき、まずは駅前に出る。コルシカ鉄道とは比べ物にならないほどちゃんとした駅だった。駅前には路面電車の駅と軌道の跡が残され、この町が以前よりそれ程の経済力を持つ町であったことを伺わせる。駅前にほど近い旧市街を少し歩いてみる。しかし、すぐにイヤになった。怖い。まだ昼間だというのに怖い。かつてのステレオタイプである貧しい南イタリアを絵に描いたような、貧相なイタリア人に、大陸を離れてから見たこともなかった、黒人。スラムの住人だ。極端な少子化の進むイタリアにあって、すれ違う若い女は何人も子供を連れている。一歩路地に入ると、見るからに手入れが悪く、汚い建物が、中世以来の迷路のような町並みに広がっている。バスで通ってきた郊外の新市街から見ると、ここは普通の市民が普段目に触れたくないものを閉じ込めておくための空間であるかのように思える。観光地化が十分にされていない旧市街とは、こういうものなのか。今にも現代の邪悪なマルコが飛び出してきそうな一角から、恐る恐る撤退した。

サッサリは大きな都市であるにもかかわらず、まともなホテルがないことも問題であった。ガイドブックでは、鉄道かバスで1時間もかからない距離にある、海沿いの観光都市アルゲーロでの宿泊を薦めている。しかし、アルゲーロはカタロニア・アラゴン家による支配を受けた歴史を色濃く残す町、つまり小バルセロナなのである。僕はバルセロナに行ったことはない。これでアルゲーロに行ってしまっては、東京に来たことのない外国人が、小江戸・川越に泊まって何かを知ったつもりになるようなものである。それは避けたい。であるならば、一気にサルデーニャ中部のオリスターノを目指すことにした。結局北部は殆ど回らなかったことになるが、何かのときに帰路の空港(カリアリ)まですぐに出れる位置にたどり着いておくというのは、日程に制約のある社会人の旅にとって安心材料でもある。中部・南部の遺跡を楽しむことに、サルデーニャの旅の目的を定める。
 



サルデーニャ鉄道という狭軌鉄道が乗り入れている。 駅の部分は3本レールがある。
 

オリスターノへ向かう列車は夜の7時前までなかった。長距離バスはもっと遅い時間しかなかった。到着が遅くなることは不安ではあったが、ほかに選択肢はない。サッサリの駅のバールで時間をつぶしたあと、イタリア国鉄の列車でオリスターノへと向かった。夕暮れの風の吹き抜ける草原を、コルシカ鉄道とは比べ物にならない早さ、いや日本の在来線よりも断然速いくらいのスピードで、駆け抜けて行く。途中、北東部Olbia方面への分岐点であるChilivaniをすぎたあたりで、いよいよあたりが闇に包まれる。Macomerのあたりは分水嶺であったが、最近出来た短絡線のトンネルらしきものを通り、駆け抜ける。
 




途中駅で交換のための作業をする車掌さん。
 

 

オリスターノには予定通り9時20分に到着した。もう真っ暗だ。期待していたタクシーはもう店じまいしている。意を決して、目星をつけていたホテルに向かって歩く。この町がほとんど危険でないことはすぐにわかった。駅から市街中心へ向かう通りは暗いながらも、普通のイタリア人、とくに女性が、普通に歩いている。あとはホテルの部屋が空いていてくれれば問題ない。ホテルは想像以上に豪華な外観で、すっかりバックパッカー風情の僕は宿泊拒否をされるのではと不安に思うほどであったが、無事泊まることが出来た。ホテルの人の様子からも安心できることがわかったので、チェックイン後、繁華街まで歩いて行き、町の人たちがテレビでサッカーを見ながら盛り上がっているバールの片隅で、星空の下簡単ながら夕食を取ることも出来た。
 


5月4日 オリスターノ〜ターロス〜カリアリ Oristano-Tharros-Cagliari [Sardegna]

オリスターノに泊まった一番の理由は、近郊のターロス(Tharros)という遺跡に行くためである。ガイドブックによると、夏期はオリスターノから公共のバスが出ているらしいのだが、シーズン前のいまの時期はそれがない。道中はずっと平野が広がっているようなので、レンタルサイクルを借りて訪れることにした。まずはツーリストインフォメーションに寄る。僕がつたないイタリア語で入って行くと、すぐに英語担当の人を取り次いでくれた。その彼女は親切、熱心で、こういう人に出会うと町の印象が一気に良くなる。話もはずんだところでアンケートに答えてほしいと言われて受けたら、かなり微妙な(調査としては優れていない)設問がA4表裏に渡って並んでいたのには困ってしまったが。長いアンケートを終えたら、お礼なのか、オリスターノ関連のあらゆる冊子をくれた。それはそれで、これから自転車に乗って遺跡まで行く僕にはかなりの荷物になるのだが、好印象であったので、これまで秘蔵しておいた「mille grazie」と言ってみた。相手も嬉しかったようだ。

ここで教えてもらった自転車屋は住宅地の中にあり、まるで観光客相手の店風ではなかったが、難なく自転車を借りることが出来た。いざ、目的地ターロスへ。通りに出て待ち受けていたのは、イタリア人ドライバーとの戦い。市街地を抜けるまでの国道は決して自転車が走りやすいものとは言えなかった。しかしオリスターノの郊外で分岐して県道レベルの道に入ってからは、それほど車の通りも多くはなく、時々かっ飛ばして行く車がラリって突っ込んででも来ない限り大丈夫だ。

ひたすら続く平坦な道。周囲には豊かな農村地帯が広がっている。ブドウ畑に加え、この旅で初めて見た小麦畑が延々と広がっている。野菜畑、花畑もある。しかし、長い。とにかく遠い。どこまで行っても着かない。自転車があまり走らないものだったからにしても、ターロスまでの20キロは思ったよりも遠かった。三十路を過ぎて、今日もいったい何の訓練をしているのか。サドルがあたる部分が痛くて痛くて仕方がない。よろず屋みたいな店で買ったサンペレグリーノの栄養ドリンクを飲み、がんばって走る。
 



 
缶の上部を覆う銀紙のカバーが瓶の装飾のようでオサレ。
 
 



このようなロケーションにターロスはある。 
 

何とかターロスに到着。その遺跡は、近づくにつれ薄々感じてはいたのだが、掛け値なしに素晴らしい場所であった。平坦な土地から小さな半島状の岬の突端に向かってこんもりと盛り上がっている、三方を海に囲まれた小山の鞍部から海岸にかけて、フェニキア・ローマに歴史を遡る町ターロスはあった。遺跡自体はその時も鋭意修復作業中で、石積みが崩れたもの、それも土台部分だけが残されているに過ぎない。観光ガイドによく使われ、遺跡のシンボルになっている2本の円柱も、この日は空が曇っていたか、背景の海に映えることもなく、それ程すごいものには見えなかった。しかしこの土地自体に何か力があることが感じられるのだ。立地として戦略上の重要性だけではないはずだ。海から海へと吹き抜ける風を感じていると、古代人にとっても我々現代人にとっても、心地よく感じるところ、土地からのエネルギーを感じるところは同じであり、つまるところ古代人はそういう場所をしっかりと選んで神聖な神殿を持つ都市を建設していたのだろうと実感する。
 
 



ターロスの顔とも言える円柱。
 

海へと続く石畳の道。
 

神殿跡。 


そしてお風呂跡(笑)。
 

この時代から物流は重要であった。溝の遺構が素晴らしい。
 

英語の出来ないドイツ人のじいさんにカメラを奪われ、撮られる。
 


見張り台は後世にカタロニア人が作ったもの。
 



周囲は美しい海岸線が続く。
 

 

遺跡の見学を終え、入口手前のレストランでお昼を食べる。ここだけでなく、至る所で冷凍食品のパスタや工場で作られたパニーニが席巻しているのを目にした。11年前に初めてヨーロッパを訪れた際、フランスでは安い食べ物がすべて不味かったのに対し、イタリアでは安くてもすべて美味しかったのが印象に残っていたのだが、それも昔の話になってしまったのかと思う。それはさておき、もし豊かな老後が訪れるならば、遺跡巡りを趣味にしようと決めた後、ターロスを後にする。帰りは若干短く感じたが、やはり遠かった。途中小さな川べりに白っぽいかたまりがあるのを見た。よく見たらヒツジの群れであった。僕は動物占いがヒツジであることもあり、共食いも含め、最近ヒツジに親近感を感じている。何より群れをなしているその姿はかわいい。和む。しかし、そちらの方から吹いてきた風は屎尿の薫りがした。
 


オリスターノへの途中、Cabras湖という水辺のほとり。
 

自転車屋に戻ると、4時までのシエスタが時間が過ぎても終わっていなかった。今日カリアリへ移動しようと思っていたので、自転車屋をたたき起こす。無事返却した後、ホテルに預けてあった荷物をピックアップし、歩いて駅へと向かい、カリアリ行きの列車に乗る。向かい合わせの座席にはここまでで一番可愛いイタリア人の女の子が座ったが、自転車往復40キロの我が身には、まるでお近づきになろうとする余力が残されておらず、2回もよだれをたらしかけながら、爆睡。女の子が降りて行った後、時々眠い目をこすりながら見た、オリスターノからカリアリの間のカンピダーノの平原は、これまで山やら丘やらばかり見て来た者には拍子抜けするほど単調な平原であった。

ぼーっとしたままカリアリの駅前に立つ。まるでメインランドと変わらない、イタリアのかなり大きな都市に辿り着いたことを思い知らされる。活気、人、車、石畳。うるさいうるさいうるさい!ホテルは駅周辺にも集中しているのだが、ちょっとゆっくりしたいと思ったので、ガイドブックに載っていた、郊外の海辺のホテルへとタクシーを飛ばす。思えば、この旅で初めてのタクシーだ。ここまでどれだけ歩いたことであろう。バス待ちもした。今日は自転車のおまけまでついた。この1週間あまりで、一般の旅行者はこれほどに安楽な乗り物で旅をしていることを忘れるほどだった。タクシーの運転手はいかにも感じの良いイタリア人で、何かれ話しかけてくる。イタリア語を上達させたいと思っている人にはぴったりに違いない。どこから来たのか、どこへ行ったか、休暇で来ているのか、イタリアはどうか、、、(最後の質問には、「美しい」という答えしか用意されていない!)などなど。もちろん運転中でも、後部座席に身を乗り出してきて、しゃべる、前も見ずに、しゃべる。Buono!

そうこうしているうちにホテルに着く。運転手に「開いてるの?」と聞いてしまうほど、想像以下にくたびれたホテルであった。千葉か伊豆かどこかの海岸の、1960年代頃に建てられた「観光ホテル」の趣である。わざわざ休みにあわせて彼女とやってきたホテルがこれだったら、泊まる前に7割の確率で別かれてしまうところであろう。3割の方に入る彼女を持つあなたは本当に幸せだと思う。いや、もし僕が女だったら7割の方に入ると思うくらいだから。今回は一人旅だし、逆にひとりでボラボラ島のようなリゾートに泊まる方が余程はた目に気持ち悪いから、良しとしよう。

残念ながら海の見える部屋は空いていなかった。部屋を出て海岸に降りて行くと、日没も近い海は何とも誰そ彼ていた。ジェノバ、ニース、バスティア、アジャクシオ、サンタテレザ、ターロス、そしてここカリアリ。地中海はどこも水面がおだやかで、足元に寄せる波も抑制がきいていて、決して驚かせるようなことがなかった。海であるのか、それとも大きな湖なのか。不思議な海、地中海。

=余談=
オリスターノとターロスを結ぶ道沿いに、Agriturismo Ferrariというのがあった。日本語にすれば、体験型農村滞在施設フェラーリといったところか。似合わない名前だ(笑)。
 

 


5月5日 カリアリ Cagliari [Sardegna]


ホテル・カラモスカ。ここに泊まっているのはいったいどういう客なのだろうか。昨日の夕食のとき、ホテルのレストランで隣に座っていたのは、フランス人の熟年夫婦だった。客がフランス語でオーダーし、ウエイターはイタリア語で返すという奇妙なコミュニケーションは、何事もなかったかのように成立していた。もっとも、僕の拙いイタリア語やフランス語の方が、サービスする方にとってはよっぽど迷惑なものであろうが。そう、このホテルのレストランで一番謎な客は、あたかも作家のフリでもするがごとく、何かを眺めては黙々とメモを書いている(それがこのトラベローグ)、謎の東洋人である僕である。さて、日替わりとおぼしきレストランのメニューは筆記体の手書きで、何が書いてあるのかさっぱりわからない以前に読めない。なんとかZuppe(スープ)、Spaghetti、Pesce(魚)と知っている単語を発見して注文したら、スープが出てくるはずのところで、ムール貝の、スープというよりも山盛りが出てきた。こんな貝の山盛りを見るのは、初めてヨーロッパを訪れた時にパリ・レアールのレストランで全くのあてずっぽで注文して出てきた、生牡蠣以来である。その時はアフタヌーンティーのケーキスタンドを大きくしたようなものに、合計20個あまりの巨大な牡蠣が盛って出された。やはり適当にオーダーをした連れのA野君は、鉛のような見た目のしょっぱい魚のスープに、スプーン一杯も飲まず白旗を上げていた。話がそれたが、その貝のズッペは基本的ににんにくとオリーブ油でいためたようなシンプルなものながら、何か深い味わいを感じさせた。それは新鮮さゆえであろうか。他の料理も美味しい。その料理の内容とちょっとした居心地の良さに、だんだんとここのホテルが、新しくも大きくもないけれども、このエリアで一定の存在感を持ち続けているホテルであることに気づかされはじめる。貝と格闘している間に、曇り空に夕暮れが訪れる。それは赤みがかった何とも含みのあるものであった。

朝も海岸を散歩する。すっきりと晴れ渡ってはいないがゆえに、小さな湾に抱かれたその風景は、この南の島にあって控えめな美しさを感じさせる。しばし物思いにふける。そのあと、バスを乗り継いでカリアリの中心街まで行く。ガイドブックにコインランドリーがあると言うので、洗濯物をもって出かける。しかし、中心街でも下町っぽいエリアだったその番地の場所には、もう何の店だったのかわからない、何年も前に打ち捨てられたような廃墟しかなかった。逆にもしそこに洗濯機がおいてあったら、これでは洗濯物が汚れるのではないかと、使うかあきらめるか迷ったに違いない。あと旅行日程も少ないので、であるならば買うのも良いかと、駅前にあるラ・リナシェンテ(La Rinascente)というイタリア本土資本のデパートに入る。こういうときばかりは、大きな都市にいればこそのメリットだ。立派なビルに構えたお店のロゴやサインの色使いがかわいい。まさにイタリアといった感じのデザインの、上質な家庭用品なども取り揃えてあった。やはりここは島というよりも、都市だ。スポーツ用品の売り場で、Tシャツなどを買うことが出来た。

近くにインターネットを使えるスペースがあったので久々にメールチェックをし、その後駅前の広場にあるツーリストインフォメーションに行った。サルデーニャにはヌラーゲと呼ばれる先史時代の石造集落跡が点在しているが、その最大のものがバルーミニ(Barumini)のス・ヌラージ(Su Nuraxi)。サルデーニャ語の名称を英訳すれば、その名もまさにザ・ヌラーゲズである、サルデーニャきっての先史遺跡、ここへの行き方を確認するのが目的であった。しかしこの時期は、往路がカリアリ14時、復路が早朝の、1日1往復しかバスがないという。カリアリ発のパッケージツアーのようなものもないという。タクシーで行くには100ユーロでは済まないほど高いようだ。インフォメーションの人も、実際皆さん困られていますが、手だてがないんですと言う。それで何とかしないところがイタリアらしいといえばらしいが。非常に悩んだ結果、今回はあきらめることにした。僕は有史以後の歴史はさておき、考古学についてよく知っている訳ではないので、特に先史時代の遺跡を見て、何がわかるかわかったものではない。サルデーニャを再訪する機会があればもう少し先史時代を勉強し、その時こそバルーミニに行こうと決める。

バルーミニに行く代わりとして、ツーリストインフォメーションからその足で即カリアリの考古学博物館に行く。ここにはサルデーニャ南部を中心とする各地のヌラーゲ遺跡からの出土品が収められている。考古学通には大変興味深そうな展示が数多くあったが、本当にガラガラだった。説明は多くがイタリア語のみだった点も、私のような通ではない旅行者にはちょっと残念であった。一部だけついている英語の解説を読み流しながら、ぐるっと一周した。正直、事前知識以上の理解を深めることは出来たとは思えなかったが、バルーミニをあきらめるほどにはおなかがいっぱいになった。

その後、博物館に隣接するカリアリの旧市街を歩いて回る。ここの旧市街は、城壁に囲まれているだけではなく、それ自体が南北に伸びた細長い台地の上にある。規模もかなり大きい。現在は周囲を市街地が取り囲んでいるため、そこだけ街がにょっきりと起立したような景観となっている。中は、サッサリの旧市街同様に高い建物が密に立ち並び、かつ手入れの悪いものが多かったが、あまり危険なにおいはしなかった。まだ人も住んではいるのだが、その急坂の上のロケーションや、車の進入も制限されているというアクセスの悪さゆえに、典型的なスラム化から免れているのかもしれない。何世紀とそこにあるものか、伝統に回帰した新住民の手になるものなのかはわからなかったが、工房の前も通りかかった。そして、あちこちでEUの助成を受けた自治体による建物の修復保全作業が行なわれていた。ただ、まだ面的というよりは点として事業が行なわれており、全部一巡する頃にはまた他が朽ちてきているに違いない、気の長い話のようであった。ヨーロッパに入って10日近く。石積みの建物の放つ、先人の喜びも絶望もすべて溜め込んだかのような歴史の重みがだんだんと面倒くさくも感じられてきて、スクラップ&ビルドを前提とした日本の街が、考え方によっては好ましく思えてくることもある。
 



旧市街中心のカテドラル。その美しいファサードの向かいには、崩れかけた建物が並ぶ。正面から見ると有り難みのある聖人の像も、後ろから町並みを背景に見るとまるで肩を落としているかのよう。
 



向かって右側だけ修復の終了した建物。早速こじゃれたバールが入っている。
EUからの補助も受けているようである。
 

西側を見下ろす。
 


同じく東側。一部は人工のアーチの上に街が築かれている。
 

ここの旧市街のハイライトは、台地の先端にあるBastione San Remy(サンレミ要塞)という旧市街と現市街を結ぶ門と階段状の建造物を持つ広場である。この建造物自体は20世紀初頭に建設されたもので、旧市街の建造物としては比較的新しいものであるが、ここの広場から、足元の現市街やカリアリの港、更には南に海岸線、東西に開発の進む郊外を一望することができる。平日で人も少なく、しばらくぼーっと佇んでいたら巡回中のカラビニエリ(憲兵隊)にパスポートのチェックを受けたが、特に何の問題もなかった。ただ、ここは夕日の名所とはいえ、ホテルまで路線バスを乗り継いで帰ることを思うと真っ暗になるまで市街地にいるのも不安であり、カラビニエリが消えた後、駅前のバスターミナルまで戻ってホテルに帰ることにした。
  




Bastione San Remyと、これを囲む広場。空中広場から、ゲートを抜けて空へと飛び立っていけるかのよう。
 

夕食の前に、明日チェックアウトする旨を伝える。にわかに情が移ってきていて、少し寂しく思う。今夜もホテルのレストランで食事をとる。散財も決め込んだ。まだ空いていたので、景色の見える席に座らせてほしいと頼む。程なく空が色づいてきた。曇りがかったブルーグレーの空に赤みがかかる。よくあるオレンジ色の夕暮れではない。どういうわけか、とても赤みが強い。その赤い色が、ブルーグレーの空の色とまじりあって、グレーがかって、紫色のような模様を描いている。ハワイのゴージャスなサンセットとは全然違う。ある意味サルデーニャらしい、含みのある夕暮れだ。名残惜しく思う。

食事の方はというと、今日は昨日にまして素晴らしいものであった。Pennette Casamoscaというこのホテルの名前をとったペンネ。魚介類のペンネだと言うので頼んでみると、めちゃくちゃ美味しい。昨日からおなじみのムール貝に、ハマグリ系の貝、ミニチュアのサザエのような貝、それにタコとイカ。これも基本的ににんにくとオリーブ油でいためているのだが、皿の底の油の色がオレンジ色がかっているのは何か秘密があるのか。貝のエキスがしみ出ているだけなのかわからないが、とにかく美味しかった。ウエイターに拙いイタリア語で美味しいことを伝えておいた。残念ながらそのオレンジ色の正体を聞くことは、僕の語学力では出来なかった。メインに、Filetto ホニャララというものを食べる。フィレ(ヒレ)だから、牛もしくはヒツジが来るだろうと、あてずっぽうでオーダーしたら、牛らしき大きな肉がどーんと来た。ちょっと普通の牛の味と違うので、何の部位かよくわからないけど、サルデーニャ牛かなあ...と車窓から見た牛のことを思い出しながら、200gはありそうな肉を平らげる。高炭水化物ダイエットに続いて高タンパク質ダイエットもOKだ。ただ最後のデザートはちょっと厳しかった。調子に乗ってオーダーしたが、チーズ詰めの揚げ餃子みたいなものに、浸るほどドロリとはちみつの液がかかったご当地デザート・セアーダス(seadas)は、死ぬほど甘かった。でもここで残したら帰国してから悔やまれる。完食。

部屋に戻り、パラパラと英語のガイドブックをめくる。イタリア料理用語のコーナー。さっき食べたデザートのことも載っている。ふと目が止まった言葉。cavallo。さっきメインに食べた、フィレ・ホニャララの肉だ。横に英語で、horseと書かれていた。


5月6日 カリアリ〜プーラ Cagliari-Pula [Sardegna]


 
今日はサルデーニャに地中海地方の青い空が戻ってきた。何とうらぶれたホテルだと思っていたが、光を浴びると俄然輝いて見え始めた。海の色は、昨日までとはまるで別の海のもののように見える。美しい。

ホテル・カラモスカでの最後の食事となる朝食のときに、ひとりの男に話しかけられた。中国や東南アジアの工場から、マッサージ器などの健康器具をイタリアのみならずフランスなどヨーロッパ諸国に輸入販売するビジネスを手がけていて、今週はコンベンションでカリアリに来ているのだと言う。僕も同じコンベンションで来ているビジネスマンかと思い、話しかけてきたそうだ。カプチーノを片手に、海を見下ろすそのレストランでしばし談笑する。見たところ切れ者のように見えない彼の話はやはりそんなに面白い訳でもなく、英語も途中不明瞭なところがあったが、ここ暫く観光案内所で僅かな時間英語を使う以外、片言のイタリア語もどきだけでしかコミュニケーションできなかった鬱憤が溜まっていたのか、ちょっとすっきりした。
 

 
 

朝食後ビーチを散策したりしながら、かなりゆっくりしたのち、名残を惜しみつつホテルをチェックアウト。今日はバルーミニの代わりとして、遺跡Nora(ノーラ)のある街・プーラを目指す。プーラはカリアリからバスで更に南に向かったところにある。Noraはサルデーニャに遺されたフェニキア・ローマ時代の遺跡として、先日訪れたオリスターノ近郊のTharrosと並び称されるものである。カリアリのバスターミナルに行くと、プーラを経由するバスは多く出ているはずなのだが、それもプーラ行きではない。7つくらいあるバスの停留所には何の表示もなく、開いているところにバスが来てはすぐに発車してしまうため、どのバスに乗るか以前にどこから乗ればいいかさえわからない。そうしてモタモタしている間に、プーラに着いたのは昼過ぎになっていた。

昨日、カリアリのツーリストインフォメーションから出てきたとき、グループで取り囲まれるとまずアウトではないかというような風情と年頃の男子が突然近寄ってきて、何の言いがかりをつけられたかと思ったら「プーラに行きなよ。きれいだから。」とだけ言って去っていったのだが、実際雰囲気の良い街であった。あたかも一年中祝祭を行なっているかのように、通りの上を無数の小旗がひらめき、町中が優しく幸せな雰囲気で満ちているかのうように見えた。これはこの旅行初めての感覚である。街角には花屋があり、家々の軒先には美しく飾られている。立ち並ぶ店の内容からして、ここはかなりの観光客を集める街なのだろうと思う。しかし、もともとしっかりしたコミュニティの基盤があった上に、観光業が栄えたのであろうか、シーズンオフのこの時期であっても、空々しさがまったく感じられない。
 


 

街の中心の広場に面した、観光客向けのカフェで休憩して街の雰囲気を楽しみながらランチを取る。人当たりのよさ満点の店のおじさんにすすめられ、昼からつい食べ過ぎる。食後、ローカルコミュニティのバスに乗り、街から3キロ、Noraの遺跡から1キロほどの地点にある、今日泊まる予定のホテルへと向かう。目の前で思いっきり1台が言ってしまい、炎天下の中、45分ほど待つ。この旅の間、どれくらいバスを待ったことだろうか。こういうことを辛く感じることも既になくなってしまった。ただ腕の日焼けが痛いだけだ。

着いたホテルの周囲は家がまばらな草地や農地のような感じで、海岸に面している訳ではないが、すぐ近くに海の存在を感じる。ここに来て初めて、僕が思ういわゆる「島」に来た雰囲気。ホテルは日本で言うペンションのようなもので、オーナーは一見すると何の変哲もない田舎のイタリア人の風情。しかしこのホテル、あらゆる空間が非常に心地よく作られている。客室は青を基調にまとめられ、椰子の木洩れ日が木枠の窓越しに差し込んでくる。ダイニング、ここは宿泊者以外も入れるローカル料理のレストランを兼ねているのだが、黄色の壁にアーチを描く梁や瀟洒な扉が柔らかな雰囲気を作る中、現代的なものからオーソドックスなものまで、一見バラバラのアートがなんとも不思議なまとまりをもって飾られている。期せずして、こういう気持ちの良い宿に出会った時の喜びは非常に大きい。
 



 

ビーチも歩いてわずかなところにあった。これまでよく一緒に島に遊んだ友人のA山くんなら、「旅行、ここだけで良かったんじゃない?」とでも言い出したかも知れない。太陽が光り輝き、空にも水にも緑にも砂浜にも美しさを与え、今日は何から何まで絶景である。
 





"Ti amo" means "I love you."
 

料理も素晴らしかった。Malloreddus(マッロレッドゥス)というニョッキのような歯ごたえのサルデーニャのパスタは、見た目は細い貝、もしくは虫のサナギのよう。これを当地のソーセージとトマトソースで和えてあるだけなのだが、信じがたい美味さ。そして魚介類のフリッター。イカ、タコ、エビに、なんと魚が4匹山盛り。もうしばらくは魚は見たくないよというその量だったが、ただの塩とレモンだけなのに、カラリと新鮮で美味であった。次にイタリアに来る機会があったら、このかなり安いホテルに数日滞在するためだけに飛行機で本土からサルデーニャまでひとっ飛び、なんてことが出来たらとても贅沢だ。
 


5月7日 プーラ〜カリアリ Pula-Cagliari [Sardegna]


旅もいよいよ終わりに近づいて来た。午前中、ホテルから1キロほどの距離にある、古代遺跡のNoraまで歩いていく。サルデーニャではTharrosと並び称される、フェニキア・ローマ時代の代表的遺跡である。島の主都カリアリからの近さを反映してであろうか、アプローチは公園のように綺麗に整備され、発掘が進んでいるのであろうか、石積みの広がる規模はNoraの方がTharrosよりも大きいように思えた。この時代の遺跡のシンボルと言える、神殿の「柱」も、Noraの方が多く復元されている。ただ、海沿いでほんの小さな半島とはいえ、Tharrosと比べると普通の平坦地に位置しているからか、遺跡に入ってもTharrosで感じたような土地からのエネルギーを感じない。

しかし、遺跡の突端部にある神殿跡まで歩いていって、印象が変わった。吹き抜ける風を感じていると、やはりここも古代人がビジネスや軍事戦略上の意図以上の何かを意識して、選んだに違いないということを実感する。しかも今日はものすごくいい天気だ。海が、空が、どこまでも青い。














ここのモザイクは、白・黒・オークルの3色によるシックな色合いのもの。









Noraからの帰り、道路ではなくビーチ伝いに宿へと戻る。日差しは肌をじりじり焼くほど強く、もしこれで風がなく空気が湿ってでもいたら、うだるような暑さになっていてもおかしくないほどなのに、水にそっと足を入れてみると5月初めの海は思いのほか冷たかった。水の冷たさはカリフォルニアと似ている。地中海式気候とは良く言ったものだ。

1泊ではもったいなかった宿を出て、またバスを乗り継いでカリアリに戻る。まずローカルのバスがなかなか来ない。プーラ市街からカリアリへのバスもなかなか来ない。バールなどで休んでいてもよいのだが、バスが通り過ぎるのはほんの一瞬だ。それでまた何時間も待つのは、ちょっとばかばかしい。結果、地中海の太陽を贅沢に浴びながら、バス停にべったりくっついて待つことになる。


カリアリ駅


リナシェンテ(デパート)




晴れた日のBastione San Remyの広場はまさに空に浮かんでいるかのよう。
 

カリアリに戻ると、ここも晴天の下で別の一面をみせていた。曇りの日は車の騒音ばかりが目立つただの都会だったのに、晴れの日は穏やかな表情を見せる丘の町に変わっていた。もっとも、この日は土曜日。街はうざい男子で満ちあふれていた。この若者文化に関してイタリアは、我々の国を含めて多くの国と同様に、決してアメリカ文化の本質ではない流行としての暴力性や幼児性を積極的に輸入しているように思える。特に、文化遺産に唾を吐くかのようなグラフィティ以下の落書きは、残念と言わざるを得ないが、これは同時に、日本という概念がしばし問われるのと同様、イタリアという存在も絶対的なものではなく、相対性を帯びたものであることを示唆している(絶対性を確立せんと、時として暴挙に出るのがフランスと言えようか)。今回のように、旅行者が比較的少ないところを旅するということは、旅行者向けの化粧が十分に施されていない分、生活や文化のよりありのままの姿を目にすることになる。その姿はガイドブックにあるような完了形のものではなく、現在進行形のものであることに気づき、歴史の国イタリアのそのまた隔絶された僻地と思っていた場所にあって、数千キロ離れた東京と変わらぬ現代を共有していることを思い知らされる。

この日は、翌朝にカリアリからローマ経由で帰国便に乗るとあって、市街中心のホテルに宿泊し、その近くのレストランで夕食をとった。ホテルはそこそこの値段がしたし、レストランもサルデーニャ郷土料理を売りにしたところであったが、既に旅のクライマックスはプーラの宿にあったのか、気持ちの高まりをむしろクールダウンさせてくれるようなものであった。


5月8日 カリアリ〜ローマ〜東京 Cagliari-Rome-Tokyo [Sardegna]


カリアリ空港は超近代的なターミナルを擁していた。未来へ向けての経済的な発展を吹聴するかのようなターミナルを目の当たりにすると、最初「離島めぐり」のつもりで訪れた旅行者に対し、島と位置づけられることを自ら拒否しているようにも思えた。この時勢を反映して厳しい搭乗チェックを受けた後、アリタリアの国内線でローマへ向かう。離陸する飛行機からカリアリの街を見下ろしつつ、サルデーニャへの名残を惜しみ、コルシカからの旅の終わりを受け入れる。島の東部、人口が希薄なオリアストラ地方のうねる山並みの上空を抜けて地中海に出ると、やはりここでも平らな青い海がローマまで続いていた。

 

カリアリ都市圏を見下ろす。

  
ローマの空港に降り立ち、国際線のターミナルへ向かうと、コルシカに渡って以来まるで見ることのなかった日本人を、一気に何十人と目にすることになった。ブランド品の店や免税店のショッピングバッグを持った人々の表情は、おそらく日本の繁華街に買い物に来ている時のそれと何ら変わることなく、毎度のことながら拍子抜けさせられる。そんな人波にまぎれて、ゴールデンウィークも明けた日本へと舞い戻った。

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旅行記はこれでおしまいです。
 
 


ローマにて。日本ではまずないだろうが、タラップを使って777に乗る。
まさに777たらしめている巨大なエンジンを間近に見る。
 
 


Omache Gallery/オマケ ギャラリー [Genaral]

本文中では使わなかったボツ写真を集めてみました。
 


4/27 サンクトペテルブルク上空付近。もう4月も終わりなのに、地面に残る雪が見える。


アリタリアのパーソナルビデオシステムのロジックは超使いにくい...


アルプス南麓、地図で見て気になっていた氷河湖群を見下ろす。コモ湖とかマッジョーレ湖とかそういうのだと思うけれど、この写真の湖がどれなのかはちょっとわからない。
 


4/28 ジェノバ・カゼッラ鉄道というローカル線の始発駅。ジェノバと後背にある山中の小さな村カゼッラを結ぶ。始発駅というのに山腹の住宅地の中にあって、Trenitalia(FS、旧国鉄が民営化されたイタリア鉄道)には接続していない。ここから先、市街に降りていく技術や資金がなかったように見受けられる。


一応電車だが華奢そうな車両が見える。落書きされている車両が目立つのが残念。

ジェノバ・カゼッラ鉄道:イタリア語だけど、トップの写真が良いです。
http://www.ferroviagenovacasella.it
 


4/30 バスティアのPlace St. Nicolasに居を構えていた、フランスのメガバンク、BNPパリバの支店。


その並びにあった、同じくメガバンクであるクレディ・アグリコールの支店。ちょっと銀行には見えないでしょ?
 


5/3 サッサリ駅。狭軌鉄道であるサルデーニャ鉄道(FdS、Ferrovie della Sardegna)の気動車。サッサリからは、アルゲーロ(Alghero)、ポルト・トッレス(Porto Torres)、ソルソ(Sorso)という、いずれもサッサリ県にある都市を結ぶ路線を3つ持つ。

他に、ヌオーロ県の主都ヌオーロ(Nuoro)と、FSとの接続駅マコメール(Macomer)を結ぶ路線、カリアリ(ただしFSとは別の駅)とイズィリ(Isili)という町を結ぶ路線を持つ他、Il Trenino Verde(トレニーノ・ヴェルデ、緑の小さな列車)という季節運行の観光路線を4路線持っている。

サルデーニャ鉄道、トレニーノ・ヴェルデ:これもイタリア語なのですが。
http://www.ferroviesardegna.it
http://www.treninoverde.com
 


5/4 ターロス(Tharros)にて。異彩を放っていました。


フェラーリですよ、フェラーリ。

アグリトゥーリスモ フェラーリ:サイト見つけちゃいました。
http://www.agriturismoferrari.com
 


5/5 カリアリ旧市街。UNIVERSITA DEGLI STUDJ...大学のはずが、こんなところにDJが隠れてますよ。ちゃんと勉強してるんですか! って、studioの複数形studiiのはずがiを2つ並べるのを避けるために現代語ではstudiと表記するところ、昔はi(イ)ではなくj(イ・ルンゴ。長いイという意味)を使っていたということでしょうか。


ヒュンダイ『ゲッツ』。スタン・ゲッツというよりも、黄色のジャケットが目にちらつきそうなその名前だけで、絶対買いたくない。でもお手頃価格ゆえにヨーロッパではバカ売れ。おかげでいまフィアットは経営危機。

 


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