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5月3日(1) サンタテレザ〜ルバーニュ Santa Teresa di Gallura-Lu Bagnu [Sardegna]


 

サンタテレザは正しくは「ガッルーラ地方の」という意味をもって、サンタテレザディガッルーラ と呼ばれる。これまでに回ってきたどの町ともまるで違う雰囲気の町であった。この町のルーツは200年ほど前に遡るそうなのだが、今のように開けはじめたのはサルデーニャで観光産業が勃興した、ここ40年も経っていないほどとのことである。整然とした区画の町並みに、歴史を感じさせないコンクリート作りの低い建物が並ぶその風景は、どこか南米の町を思わせるところもある。観光案内所を擁する中心の広場は、パリという概念を意図的に地方に伝播するかのような重厚なフランス風の市街地整備とは異なり、まるで日本の再開発エリアのような真新しい舗装がなされ、風情は感じられない。何より雰囲気が違うのが人々である。陽気さというかのどかさが、まるでコルシカ人とは違う。近くて遠い11キロである。

この町はなんといっても、ヨーロッパ随一の高級マリンリゾートであるコスタ・ズメラルダ(エメラルド海岸)の西の入口に位置するだけのことはあり、その周囲に、独特の碧い色をたたえた美しいビーチを持っていた。そして砂浜以上に印象的だったのは、それを取り囲む荒々しい崖である。大きな白い岩が重なって連なるところに、岩場と乾燥に強そうな植物が、まさにいま花の季節を迎え、色とりどりに咲き誇っていた。
 



早朝のビーチ。遠くに灰色のコルシカが見える。
 


背の低い植物が、岩場にしっかりと根を張る。
 




静かな水。コルシカからの朝一のフェリーを望む。
 

サンタテレザからコスタ・ズメラルダとは反対方向、北海岸を西へ、サルデーニャ島北部の中心サッサリ行きの路線バスに乗り込む。サルデーニャはコルシカと異なり、公共交通のネットワークが日本の地方並みには整備されている。ここガッルーラ地方は、少し内陸に入っても、海岸にあったのと同じ白く大きな岩がごろごろとあちこちに転がっているのが、車窓から見える。遠くには、その岩を積み上げたような岩山が連なる。コルシカと比べて非常に平坦ではあるが、しかし岩と灌木の平原は不規則にうねりまくっている。コルシカが山の島なら、サルデーニャは丘の島か。いくつか地元の町を迂回しながらバスは走って行くが、ガッルーラ地方はここ数十年の入植地のような、比較的新しい建物で構成された町が多いようである。
 





サルデーニャ最北部、ガッルーラ地方の車窓。
 



カステルサルドを車窓より。
 

ガッルーラを抜けて、バスはカステルサルドという古い町に向かう。岬の先端の小山みたいなところに、色とりどりの積み木をひっくり返したような建物がうずもれている。ここが今日の目的地だ。しかし、昨日物価の高いボニファシオに泊まらなかったのと同様、ここも宿代をケチりたいがために、ガイドブックが薦めている5キロ先の町にあるユースホステルへと、そのままバスに乗って直行した。Lu Bagnuというその町らしきところでバスを降りる。まっすぐ伸びる道路の脇に、まばらに家が建つ。南米の開拓地のような雰囲気のところだ。このエリアの山はガッルーラのそれと違って赤い岩山が多いが、そのためか道路も心なしか赤っぽくに見える。それが赤土の開拓地を思い起こさせるのであろうか。日本で言えば沖縄石垣島の於茂登岳の北側、戦後入植が進んだエリアに感じるものが最も近い。


しかしこの昼下がり人気がなく、どこにホステルがあるのか誰にも聞きようがない。とりあえずバスを降りた方向からカステルサルドの方向に戻って歩いてみる。それらしきものはない。街外れのバールでホステルのある通りの所在を聞いてみる。するとここからウン (1) キロだという。反対方向に歩いてきていた。さっき歩いてきた街道を、再びとぼとぼと歩く。サックの重みがだんだんと堪えてくる。今日はいくらか曇天であったことには救われた。バスを降りた地点を通過し、そのままずっと行くが、それらしき通りは見当たらない。ついに町の反対の端まで来た。通りはあった。そこにはホステルはない。ホステルのアドレスを求めて、その通りを歩く。めちゃくちゃ急な坂になっていく。若者には良いが、これではまるで三十路の来場を拒んでいるかのようである。その非・若者を待ち受けていたのは、評判の良いユースホステルらしく英語の達者な、若い管理人からの、夏のトップシーズンに向けて改装休業中だという、無情な知らせであった。

再び荷物を背負って坂を降りる。いったい何を好んでこんな訓練をしているのか。これから自衛隊に入りたいという訳ではない。普通の三十路ならこんなこと出来ない、これは日々暴飲暴食をつつしみ、健康に留意して生活をしている賜物に違いないと、自分を慰めながら歩いていたら、バス停を通り過ぎるという香ばしいチョンボ((c)鳥頭)までやらかした。

もうカステルサルドに行く気力はすっかり失せてしまった。先を急ごうと、さっき降りたバスと同じ方向、サッサリ行きを待つ。カステルサルドとサッサリの間は、区間便が大変多く1日に16本くらいあるとガイドブックに書いてあったことを信じ、バスを待つが、まったくこない。腹立たしいことにカステルサルド行きはサッサリ以外から来たものを含め、5本も目の前を通過して行った。何ともイタリアの田舎らしい光景、オート三輪に乗ったおじいちゃんも、僕の目の前をトロトロと通過して行った。


 


5月3日(2) ルバーニュ〜サッサリ〜オリスターノ Lu Bagnu-Sassari-Oristano [Sardegna]

結局1時間半ほど待って、ようやくバスが現れた。バスは地元の人で相当混み合っていた。その理由も、車窓を見れば理解できた。ここよりサッサリ側は、サンタテレザ側と違って明らかに開けていた。まだ芽吹いたばかりのブドウ畑、道の両側に広がるオリーブ畑。これまでコルシカでも、サルデーニャに入ってからでも見なかった、豊かな農村風景だ。途中SorsoとSennoriという農産物の集散地らしき町を通ったが、地方の町にしては明らかに大きく、そして古い。土地の肥沃さの違いが生産力、つまり涵養する人口の違いにつながり、歴史をも変えるということを目の当たりにさせられる。もっとも、それら古い町は、路地に腰の曲がった老婆の姿が見られるあたり、日本の地方小都市同様にさびれた空気を漂わせつつあり、現代において住むにはあまり快適そうではなかったが。
 


 

サッサリのバスターミナルにつき、まずは駅前に出る。コルシカ鉄道とは比べ物にならないほどちゃんとした駅だった。駅前には路面電車の駅と軌道の跡が残され、この町が以前よりそれ程の経済力を持つ町であったことを伺わせる。駅前にほど近い旧市街を少し歩いてみる。しかし、すぐにイヤになった。怖い。まだ昼間だというのに怖い。かつてのステレオタイプである貧しい南イタリアを絵に描いたような、貧相なイタリア人に、大陸を離れてから見たこともなかった、黒人。スラムの住人だ。極端な少子化の進むイタリアにあって、すれ違う若い女は何人も子供を連れている。一歩路地に入ると、見るからに手入れが悪く、汚い建物が、中世以来の迷路のような町並みに広がっている。バスで通ってきた郊外の新市街から見ると、ここは普通の市民が普段目に触れたくないものを閉じ込めておくための空間であるかのように思える。観光地化が十分にされていない旧市街とは、こういうものなのか。今にも現代の邪悪なマルコが飛び出してきそうな一角から、恐る恐る撤退した。

サッサリは大きな都市であるにもかかわらず、まともなホテルがないことも問題であった。ガイドブックでは、鉄道かバスで1時間もかからない距離にある、海沿いの観光都市アルゲーロでの宿泊を薦めている。しかし、アルゲーロはカタロニア・アラゴン家による支配を受けた歴史を色濃く残す町、つまり小バルセロナなのである。僕はバルセロナに行ったことはない。これでアルゲーロに行ってしまっては、東京に来たことのない外国人が、小江戸・川越に泊まって何かを知ったつもりになるようなものである。それは避けたい。であるならば、一気にサルデーニャ中部のオリスターノを目指すことにした。結局北部は殆ど回らなかったことになるが、何かのときに帰路の空港(カリアリ)まですぐに出れる位置にたどり着いておくというのは、日程に制約のある社会人の旅にとって安心材料でもある。中部・南部の遺跡を楽しむことに、サルデーニャの旅の目的を定める。
 



サルデーニャ鉄道という狭軌鉄道が乗り入れている。 駅の部分は3本レールがある。
 

オリスターノへ向かう列車は夜の7時前までなかった。長距離バスはもっと遅い時間しかなかった。到着が遅くなることは不安ではあったが、ほかに選択肢はない。サッサリの駅のバールで時間をつぶしたあと、イタリア国鉄の列車でオリスターノへと向かった。夕暮れの風の吹き抜ける草原を、コルシカ鉄道とは比べ物にならない早さ、いや日本の在来線よりも断然速いくらいのスピードで、駆け抜けて行く。途中、北東部Olbia方面への分岐点であるChilivaniをすぎたあたりで、いよいよあたりが闇に包まれる。Macomerのあたりは分水嶺であったが、最近出来た短絡線のトンネルらしきものを通り、駆け抜ける。
 




途中駅で交換のための作業をする車掌さん。
 

 

オリスターノには予定通り9時20分に到着した。もう真っ暗だ。期待していたタクシーはもう店じまいしている。意を決して、目星をつけていたホテルに向かって歩く。この町がほとんど危険でないことはすぐにわかった。駅から市街中心へ向かう通りは暗いながらも、普通のイタリア人、とくに女性が、普通に歩いている。あとはホテルの部屋が空いていてくれれば問題ない。ホテルは想像以上に豪華な外観で、すっかりバックパッカー風情の僕は宿泊拒否をされるのではと不安に思うほどであったが、無事泊まることが出来た。ホテルの人の様子からも安心できることがわかったので、チェックイン後、繁華街まで歩いて行き、町の人たちがテレビでサッカーを見ながら盛り上がっているバールの片隅で、星空の下簡単ながら夕食を取ることも出来た。
 


5月4日 オリスターノ〜ターロス〜カリアリ Oristano-Tharros-Cagliari [Sardegna]

オリスターノに泊まった一番の理由は、近郊のターロス(Tharros)という遺跡に行くためである。ガイドブックによると、夏期はオリスターノから公共のバスが出ているらしいのだが、シーズン前のいまの時期はそれがない。道中はずっと平野が広がっているようなので、レンタルサイクルを借りて訪れることにした。まずはツーリストインフォメーションに寄る。僕がつたないイタリア語で入って行くと、すぐに英語担当の人を取り次いでくれた。その彼女は親切、熱心で、こういう人に出会うと町の印象が一気に良くなる。話もはずんだところでアンケートに答えてほしいと言われて受けたら、かなり微妙な(調査としては優れていない)設問がA4表裏に渡って並んでいたのには困ってしまったが。長いアンケートを終えたら、お礼なのか、オリスターノ関連のあらゆる冊子をくれた。それはそれで、これから自転車に乗って遺跡まで行く僕にはかなりの荷物になるのだが、好印象であったので、これまで秘蔵しておいた「mille grazie」と言ってみた。相手も嬉しかったようだ。

ここで教えてもらった自転車屋は住宅地の中にあり、まるで観光客相手の店風ではなかったが、難なく自転車を借りることが出来た。いざ、目的地ターロスへ。通りに出て待ち受けていたのは、イタリア人ドライバーとの戦い。市街地を抜けるまでの国道は決して自転車が走りやすいものとは言えなかった。しかしオリスターノの郊外で分岐して県道レベルの道に入ってからは、それほど車の通りも多くはなく、時々かっ飛ばして行く車がラリって突っ込んででも来ない限り大丈夫だ。

ひたすら続く平坦な道。周囲には豊かな農村地帯が広がっている。ブドウ畑に加え、この旅で初めて見た小麦畑が延々と広がっている。野菜畑、花畑もある。しかし、長い。とにかく遠い。どこまで行っても着かない。自転車があまり走らないものだったからにしても、ターロスまでの20キロは思ったよりも遠かった。三十路を過ぎて、今日もいったい何の訓練をしているのか。サドルがあたる部分が痛くて痛くて仕方がない。よろず屋みたいな店で買ったサンペレグリーノの栄養ドリンクを飲み、がんばって走る。
 



 
缶の上部を覆う銀紙のカバーが瓶の装飾のようでオサレ。
 
 



このようなロケーションにターロスはある。 
 

何とかターロスに到着。その遺跡は、近づくにつれ薄々感じてはいたのだが、掛け値なしに素晴らしい場所であった。平坦な土地から小さな半島状の岬の突端に向かってこんもりと盛り上がっている、三方を海に囲まれた小山の鞍部から海岸にかけて、フェニキア・ローマに歴史を遡る町ターロスはあった。遺跡自体はその時も鋭意修復作業中で、石積みが崩れたもの、それも土台部分だけが残されているに過ぎない。観光ガイドによく使われ、遺跡のシンボルになっている2本の円柱も、この日は空が曇っていたか、背景の海に映えることもなく、それ程すごいものには見えなかった。しかしこの土地自体に何か力があることが感じられるのだ。立地として戦略上の重要性だけではないはずだ。海から海へと吹き抜ける風を感じていると、古代人にとっても我々現代人にとっても、心地よく感じるところ、土地からのエネルギーを感じるところは同じであり、つまるところ古代人はそういう場所をしっかりと選んで神聖な神殿を持つ都市を建設していたのだろうと実感する。
 
 



ターロスの顔とも言える円柱。
 

海へと続く石畳の道。
 

神殿跡。 


そしてお風呂跡(笑)。
 

この時代から物流は重要であった。溝の遺構が素晴らしい。
 

英語の出来ないドイツ人のじいさんにカメラを奪われ、撮られる。
 


見張り台は後世にカタロニア人が作ったもの。
 



周囲は美しい海岸線が続く。
 

 

遺跡の見学を終え、入口手前のレストランでお昼を食べる。ここだけでなく、至る所で冷凍食品のパスタや工場で作られたパニーニが席巻しているのを目にした。11年前に初めてヨーロッパを訪れた際、フランスでは安い食べ物がすべて不味かったのに対し、イタリアでは安くてもすべて美味しかったのが印象に残っていたのだが、それも昔の話になってしまったのかと思う。それはさておき、もし豊かな老後が訪れるならば、遺跡巡りを趣味にしようと決めた後、ターロスを後にする。帰りは若干短く感じたが、やはり遠かった。途中小さな川べりに白っぽいかたまりがあるのを見た。よく見たらヒツジの群れであった。僕は動物占いがヒツジであることもあり、共食いも含め、最近ヒツジに親近感を感じている。何より群れをなしているその姿はかわいい。和む。しかし、そちらの方から吹いてきた風は屎尿の薫りがした。
 


オリスターノへの途中、Cabras湖という水辺のほとり。
 

自転車屋に戻ると、4時までのシエスタが時間が過ぎても終わっていなかった。今日カリアリへ移動しようと思っていたので、自転車屋をたたき起こす。無事返却した後、ホテルに預けてあった荷物をピックアップし、歩いて駅へと向かい、カリアリ行きの列車に乗る。向かい合わせの座席にはここまでで一番可愛いイタリア人の女の子が座ったが、自転車往復40キロの我が身には、まるでお近づきになろうとする余力が残されておらず、2回もよだれをたらしかけながら、爆睡。女の子が降りて行った後、時々眠い目をこすりながら見た、オリスターノからカリアリの間のカンピダーノの平原は、これまで山やら丘やらばかり見て来た者には拍子抜けするほど単調な平原であった。

ぼーっとしたままカリアリの駅前に立つ。まるでメインランドと変わらない、イタリアのかなり大きな都市に辿り着いたことを思い知らされる。活気、人、車、石畳。うるさいうるさいうるさい!ホテルは駅周辺にも集中しているのだが、ちょっとゆっくりしたいと思ったので、ガイドブックに載っていた、郊外の海辺のホテルへとタクシーを飛ばす。思えば、この旅で初めてのタクシーだ。ここまでどれだけ歩いたことであろう。バス待ちもした。今日は自転車のおまけまでついた。この1週間あまりで、一般の旅行者はこれほどに安楽な乗り物で旅をしていることを忘れるほどだった。タクシーの運転手はいかにも感じの良いイタリア人で、何かれ話しかけてくる。イタリア語を上達させたいと思っている人にはぴったりに違いない。どこから来たのか、どこへ行ったか、休暇で来ているのか、イタリアはどうか、、、(最後の質問には、「美しい」という答えしか用意されていない!)などなど。もちろん運転中でも、後部座席に身を乗り出してきて、しゃべる、前も見ずに、しゃべる。Buono!

そうこうしているうちにホテルに着く。運転手に「開いてるの?」と聞いてしまうほど、想像以下にくたびれたホテルであった。千葉か伊豆かどこかの海岸の、1960年代頃に建てられた「観光ホテル」の趣である。わざわざ休みにあわせて彼女とやってきたホテルがこれだったら、泊まる前に7割の確率で別かれてしまうところであろう。3割の方に入る彼女を持つあなたは本当に幸せだと思う。いや、もし僕が女だったら7割の方に入ると思うくらいだから。今回は一人旅だし、逆にひとりでボラボラ島のようなリゾートに泊まる方が余程はた目に気持ち悪いから、良しとしよう。

残念ながら海の見える部屋は空いていなかった。部屋を出て海岸に降りて行くと、日没も近い海は何とも誰そ彼ていた。ジェノバ、ニース、バスティア、アジャクシオ、サンタテレザ、ターロス、そしてここカリアリ。地中海はどこも水面がおだやかで、足元に寄せる波も抑制がきいていて、決して驚かせるようなことがなかった。海であるのか、それとも大きな湖なのか。不思議な海、地中海。

=余談=
オリスターノとターロスを結ぶ道沿いに、Agriturismo Ferrariというのがあった。日本語にすれば、体験型農村滞在施設フェラーリといったところか。似合わない名前だ(笑)。
 

 


5月5日 カリアリ Cagliari [Sardegna]


ホテル・カラモスカ。ここに泊まっているのはいったいどういう客なのだろうか。昨日の夕食のとき、ホテルのレストランで隣に座っていたのは、フランス人の熟年夫婦だった。客がフランス語でオーダーし、ウエイターはイタリア語で返すという奇妙なコミュニケーションは、何事もなかったかのように成立していた。もっとも、僕の拙いイタリア語やフランス語の方が、サービスする方にとってはよっぽど迷惑なものであろうが。そう、このホテルのレストランで一番謎な客は、あたかも作家のフリでもするがごとく、何かを眺めては黙々とメモを書いている(それがこのトラベローグ)、謎の東洋人である僕である。さて、日替わりとおぼしきレストランのメニューは筆記体の手書きで、何が書いてあるのかさっぱりわからない以前に読めない。なんとかZuppe(スープ)、Spaghetti、Pesce(魚)と知っている単語を発見して注文したら、スープが出てくるはずのところで、ムール貝の、スープというよりも山盛りが出てきた。こんな貝の山盛りを見るのは、初めてヨーロッパを訪れた時にパリ・レアールのレストランで全くのあてずっぽで注文して出てきた、生牡蠣以来である。その時はアフタヌーンティーのケーキスタンドを大きくしたようなものに、合計20個あまりの巨大な牡蠣が盛って出された。やはり適当にオーダーをした連れのA野君は、鉛のような見た目のしょっぱい魚のスープに、スプーン一杯も飲まず白旗を上げていた。話がそれたが、その貝のズッペは基本的ににんにくとオリーブ油でいためたようなシンプルなものながら、何か深い味わいを感じさせた。それは新鮮さゆえであろうか。他の料理も美味しい。その料理の内容とちょっとした居心地の良さに、だんだんとここのホテルが、新しくも大きくもないけれども、このエリアで一定の存在感を持ち続けているホテルであることに気づかされはじめる。貝と格闘している間に、曇り空に夕暮れが訪れる。それは赤みがかった何とも含みのあるものであった。

朝も海岸を散歩する。すっきりと晴れ渡ってはいないがゆえに、小さな湾に抱かれたその風景は、この南の島にあって控えめな美しさを感じさせる。しばし物思いにふける。そのあと、バスを乗り継いでカリアリの中心街まで行く。ガイドブックにコインランドリーがあると言うので、洗濯物をもって出かける。しかし、中心街でも下町っぽいエリアだったその番地の場所には、もう何の店だったのかわからない、何年も前に打ち捨てられたような廃墟しかなかった。逆にもしそこに洗濯機がおいてあったら、これでは洗濯物が汚れるのではないかと、使うかあきらめるか迷ったに違いない。あと旅行日程も少ないので、であるならば買うのも良いかと、駅前にあるラ・リナシェンテ(La Rinascente)というイタリア本土資本のデパートに入る。こういうときばかりは、大きな都市にいればこそのメリットだ。立派なビルに構えたお店のロゴやサインの色使いがかわいい。まさにイタリアといった感じのデザインの、上質な家庭用品なども取り揃えてあった。やはりここは島というよりも、都市だ。スポーツ用品の売り場で、Tシャツなどを買うことが出来た。

近くにインターネットを使えるスペースがあったので久々にメールチェックをし、その後駅前の広場にあるツーリストインフォメーションに行った。サルデーニャにはヌラーゲと呼ばれる先史時代の石造集落跡が点在しているが、その最大のものがバルーミニ(Barumini)のス・ヌラージ(Su Nuraxi)。サルデーニャ語の名称を英訳すれば、その名もまさにザ・ヌラーゲズである、サルデーニャきっての先史遺跡、ここへの行き方を確認するのが目的であった。しかしこの時期は、往路がカリアリ14時、復路が早朝の、1日1往復しかバスがないという。カリアリ発のパッケージツアーのようなものもないという。タクシーで行くには100ユーロでは済まないほど高いようだ。インフォメーションの人も、実際皆さん困られていますが、手だてがないんですと言う。それで何とかしないところがイタリアらしいといえばらしいが。非常に悩んだ結果、今回はあきらめることにした。僕は有史以後の歴史はさておき、考古学についてよく知っている訳ではないので、特に先史時代の遺跡を見て、何がわかるかわかったものではない。サルデーニャを再訪する機会があればもう少し先史時代を勉強し、その時こそバルーミニに行こうと決める。

バルーミニに行く代わりとして、ツーリストインフォメーションからその足で即カリアリの考古学博物館に行く。ここにはサルデーニャ南部を中心とする各地のヌラーゲ遺跡からの出土品が収められている。考古学通には大変興味深そうな展示が数多くあったが、本当にガラガラだった。説明は多くがイタリア語のみだった点も、私のような通ではない旅行者にはちょっと残念であった。一部だけついている英語の解説を読み流しながら、ぐるっと一周した。正直、事前知識以上の理解を深めることは出来たとは思えなかったが、バルーミニをあきらめるほどにはおなかがいっぱいになった。

その後、博物館に隣接するカリアリの旧市街を歩いて回る。ここの旧市街は、城壁に囲まれているだけではなく、それ自体が南北に伸びた細長い台地の上にある。規模もかなり大きい。現在は周囲を市街地が取り囲んでいるため、そこだけ街がにょっきりと起立したような景観となっている。中は、サッサリの旧市街同様に高い建物が密に立ち並び、かつ手入れの悪いものが多かったが、あまり危険なにおいはしなかった。まだ人も住んではいるのだが、その急坂の上のロケーションや、車の進入も制限されているというアクセスの悪さゆえに、典型的なスラム化から免れているのかもしれない。何世紀とそこにあるものか、伝統に回帰した新住民の手になるものなのかはわからなかったが、工房の前も通りかかった。そして、あちこちでEUの助成を受けた自治体による建物の修復保全作業が行なわれていた。ただ、まだ面的というよりは点として事業が行なわれており、全部一巡する頃にはまた他が朽ちてきているに違いない、気の長い話のようであった。ヨーロッパに入って10日近く。石積みの建物の放つ、先人の喜びも絶望もすべて溜め込んだかのような歴史の重みがだんだんと面倒くさくも感じられてきて、スクラップ&ビルドを前提とした日本の街が、考え方によっては好ましく思えてくることもある。
 



旧市街中心のカテドラル。その美しいファサードの向かいには、崩れかけた建物が並ぶ。正面から見ると有り難みのある聖人の像も、後ろから町並みを背景に見るとまるで肩を落としているかのよう。
 



向かって右側だけ修復の終了した建物。早速こじゃれたバールが入っている。
EUからの補助も受けているようである。
 

西側を見下ろす。
 


同じく東側。一部は人工のアーチの上に街が築かれている。
 

ここの旧市街のハイライトは、台地の先端にあるBastione San Remy(サンレミ要塞)という旧市街と現市街を結ぶ門と階段状の建造物を持つ広場である。この建造物自体は20世紀初頭に建設されたもので、旧市街の建造物としては比較的新しいものであるが、ここの広場から、足元の現市街やカリアリの港、更には南に海岸線、東西に開発の進む郊外を一望することができる。平日で人も少なく、しばらくぼーっと佇んでいたら巡回中のカラビニエリ(憲兵隊)にパスポートのチェックを受けたが、特に何の問題もなかった。ただ、ここは夕日の名所とはいえ、ホテルまで路線バスを乗り継いで帰ることを思うと真っ暗になるまで市街地にいるのも不安であり、カラビニエリが消えた後、駅前のバスターミナルまで戻ってホテルに帰ることにした。
  




Bastione San Remyと、これを囲む広場。空中広場から、ゲートを抜けて空へと飛び立っていけるかのよう。
 

夕食の前に、明日チェックアウトする旨を伝える。にわかに情が移ってきていて、少し寂しく思う。今夜もホテルのレストランで食事をとる。散財も決め込んだ。まだ空いていたので、景色の見える席に座らせてほしいと頼む。程なく空が色づいてきた。曇りがかったブルーグレーの空に赤みがかかる。よくあるオレンジ色の夕暮れではない。どういうわけか、とても赤みが強い。その赤い色が、ブルーグレーの空の色とまじりあって、グレーがかって、紫色のような模様を描いている。ハワイのゴージャスなサンセットとは全然違う。ある意味サルデーニャらしい、含みのある夕暮れだ。名残惜しく思う。

食事の方はというと、今日は昨日にまして素晴らしいものであった。Pennette Casamoscaというこのホテルの名前をとったペンネ。魚介類のペンネだと言うので頼んでみると、めちゃくちゃ美味しい。昨日からおなじみのムール貝に、ハマグリ系の貝、ミニチュアのサザエのような貝、それにタコとイカ。これも基本的ににんにくとオリーブ油でいためているのだが、皿の底の油の色がオレンジ色がかっているのは何か秘密があるのか。貝のエキスがしみ出ているだけなのかわからないが、とにかく美味しかった。ウエイターに拙いイタリア語で美味しいことを伝えておいた。残念ながらそのオレンジ色の正体を聞くことは、僕の語学力では出来なかった。メインに、Filetto ホニャララというものを食べる。フィレ(ヒレ)だから、牛もしくはヒツジが来るだろうと、あてずっぽうでオーダーしたら、牛らしき大きな肉がどーんと来た。ちょっと普通の牛の味と違うので、何の部位かよくわからないけど、サルデーニャ牛かなあ...と車窓から見た牛のことを思い出しながら、200gはありそうな肉を平らげる。高炭水化物ダイエットに続いて高タンパク質ダイエットもOKだ。ただ最後のデザートはちょっと厳しかった。調子に乗ってオーダーしたが、チーズ詰めの揚げ餃子みたいなものに、浸るほどドロリとはちみつの液がかかったご当地デザート・セアーダス(seadas)は、死ぬほど甘かった。でもここで残したら帰国してから悔やまれる。完食。

部屋に戻り、パラパラと英語のガイドブックをめくる。イタリア料理用語のコーナー。さっき食べたデザートのことも載っている。ふと目が止まった言葉。cavallo。さっきメインに食べた、フィレ・ホニャララの肉だ。横に英語で、horseと書かれていた。


5月6日 カリアリ〜プーラ Cagliari-Pula [Sardegna]


 
今日はサルデーニャに地中海地方の青い空が戻ってきた。何とうらぶれたホテルだと思っていたが、光を浴びると俄然輝いて見え始めた。海の色は、昨日までとはまるで別の海のもののように見える。美しい。

ホテル・カラモスカでの最後の食事となる朝食のときに、ひとりの男に話しかけられた。中国や東南アジアの工場から、マッサージ器などの健康器具をイタリアのみならずフランスなどヨーロッパ諸国に輸入販売するビジネスを手がけていて、今週はコンベンションでカリアリに来ているのだと言う。僕も同じコンベンションで来ているビジネスマンかと思い、話しかけてきたそうだ。カプチーノを片手に、海を見下ろすそのレストランでしばし談笑する。見たところ切れ者のように見えない彼の話はやはりそんなに面白い訳でもなく、英語も途中不明瞭なところがあったが、ここ暫く観光案内所で僅かな時間英語を使う以外、片言のイタリア語もどきだけでしかコミュニケーションできなかった鬱憤が溜まっていたのか、ちょっとすっきりした。
 

 
 

朝食後ビーチを散策したりしながら、かなりゆっくりしたのち、名残を惜しみつつホテルをチェックアウト。今日はバルーミニの代わりとして、遺跡Nora(ノーラ)のある街・プーラを目指す。プーラはカリアリからバスで更に南に向かったところにある。Noraはサルデーニャに遺されたフェニキア・ローマ時代の遺跡として、先日訪れたオリスターノ近郊のTharrosと並び称されるものである。カリアリのバスターミナルに行くと、プーラを経由するバスは多く出ているはずなのだが、それもプーラ行きではない。7つくらいあるバスの停留所には何の表示もなく、開いているところにバスが来てはすぐに発車してしまうため、どのバスに乗るか以前にどこから乗ればいいかさえわからない。そうしてモタモタしている間に、プーラに着いたのは昼過ぎになっていた。

昨日、カリアリのツーリストインフォメーションから出てきたとき、グループで取り囲まれるとまずアウトではないかというような風情と年頃の男子が突然近寄ってきて、何の言いがかりをつけられたかと思ったら「プーラに行きなよ。きれいだから。」とだけ言って去っていったのだが、実際雰囲気の良い街であった。あたかも一年中祝祭を行なっているかのように、通りの上を無数の小旗がひらめき、町中が優しく幸せな雰囲気で満ちているかのうように見えた。これはこの旅行初めての感覚である。街角には花屋があり、家々の軒先には美しく飾られている。立ち並ぶ店の内容からして、ここはかなりの観光客を集める街なのだろうと思う。しかし、もともとしっかりしたコミュニティの基盤があった上に、観光業が栄えたのであろうか、シーズンオフのこの時期であっても、空々しさがまったく感じられない。
 


 

街の中心の広場に面した、観光客向けのカフェで休憩して街の雰囲気を楽しみながらランチを取る。人当たりのよさ満点の店のおじさんにすすめられ、昼からつい食べ過ぎる。食後、ローカルコミュニティのバスに乗り、街から3キロ、Noraの遺跡から1キロほどの地点にある、今日泊まる予定のホテルへと向かう。目の前で思いっきり1台が言ってしまい、炎天下の中、45分ほど待つ。この旅の間、どれくらいバスを待ったことだろうか。こういうことを辛く感じることも既になくなってしまった。ただ腕の日焼けが痛いだけだ。

着いたホテルの周囲は家がまばらな草地や農地のような感じで、海岸に面している訳ではないが、すぐ近くに海の存在を感じる。ここに来て初めて、僕が思ういわゆる「島」に来た雰囲気。ホテルは日本で言うペンションのようなもので、オーナーは一見すると何の変哲もない田舎のイタリア人の風情。しかしこのホテル、あらゆる空間が非常に心地よく作られている。客室は青を基調にまとめられ、椰子の木洩れ日が木枠の窓越しに差し込んでくる。ダイニング、ここは宿泊者以外も入れるローカル料理のレストランを兼ねているのだが、黄色の壁にアーチを描く梁や瀟洒な扉が柔らかな雰囲気を作る中、現代的なものからオーソドックスなものまで、一見バラバラのアートがなんとも不思議なまとまりをもって飾られている。期せずして、こういう気持ちの良い宿に出会った時の喜びは非常に大きい。
 



 

ビーチも歩いてわずかなところにあった。これまでよく一緒に島に遊んだ友人のA山くんなら、「旅行、ここだけで良かったんじゃない?」とでも言い出したかも知れない。太陽が光り輝き、空にも水にも緑にも砂浜にも美しさを与え、今日は何から何まで絶景である。
 





"Ti amo" means "I love you."
 

料理も素晴らしかった。Malloreddus(マッロレッドゥス)というニョッキのような歯ごたえのサルデーニャのパスタは、見た目は細い貝、もしくは虫のサナギのよう。これを当地のソーセージとトマトソースで和えてあるだけなのだが、信じがたい美味さ。そして魚介類のフリッター。イカ、タコ、エビに、なんと魚が4匹山盛り。もうしばらくは魚は見たくないよというその量だったが、ただの塩とレモンだけなのに、カラリと新鮮で美味であった。次にイタリアに来る機会があったら、このかなり安いホテルに数日滞在するためだけに飛行機で本土からサルデーニャまでひとっ飛び、なんてことが出来たらとても贅沢だ。
 


5月7日 プーラ〜カリアリ Pula-Cagliari [Sardegna]


旅もいよいよ終わりに近づいて来た。午前中、ホテルから1キロほどの距離にある、古代遺跡のNoraまで歩いていく。サルデーニャではTharrosと並び称される、フェニキア・ローマ時代の代表的遺跡である。島の主都カリアリからの近さを反映してであろうか、アプローチは公園のように綺麗に整備され、発掘が進んでいるのであろうか、石積みの広がる規模はNoraの方がTharrosよりも大きいように思えた。この時代の遺跡のシンボルと言える、神殿の「柱」も、Noraの方が多く復元されている。ただ、海沿いでほんの小さな半島とはいえ、Tharrosと比べると普通の平坦地に位置しているからか、遺跡に入ってもTharrosで感じたような土地からのエネルギーを感じない。

しかし、遺跡の突端部にある神殿跡まで歩いていって、印象が変わった。吹き抜ける風を感じていると、やはりここも古代人がビジネスや軍事戦略上の意図以上の何かを意識して、選んだに違いないということを実感する。しかも今日はものすごくいい天気だ。海が、空が、どこまでも青い。














ここのモザイクは、白・黒・オークルの3色によるシックな色合いのもの。









Noraからの帰り、道路ではなくビーチ伝いに宿へと戻る。日差しは肌をじりじり焼くほど強く、もしこれで風がなく空気が湿ってでもいたら、うだるような暑さになっていてもおかしくないほどなのに、水にそっと足を入れてみると5月初めの海は思いのほか冷たかった。水の冷たさはカリフォルニアと似ている。地中海式気候とは良く言ったものだ。

1泊ではもったいなかった宿を出て、またバスを乗り継いでカリアリに戻る。まずローカルのバスがなかなか来ない。プーラ市街からカリアリへのバスもなかなか来ない。バールなどで休んでいてもよいのだが、バスが通り過ぎるのはほんの一瞬だ。それでまた何時間も待つのは、ちょっとばかばかしい。結果、地中海の太陽を贅沢に浴びながら、バス停にべったりくっついて待つことになる。


カリアリ駅


リナシェンテ(デパート)




晴れた日のBastione San Remyの広場はまさに空に浮かんでいるかのよう。
 

カリアリに戻ると、ここも晴天の下で別の一面をみせていた。曇りの日は車の騒音ばかりが目立つただの都会だったのに、晴れの日は穏やかな表情を見せる丘の町に変わっていた。もっとも、この日は土曜日。街はうざい男子で満ちあふれていた。この若者文化に関してイタリアは、我々の国を含めて多くの国と同様に、決してアメリカ文化の本質ではない流行としての暴力性や幼児性を積極的に輸入しているように思える。特に、文化遺産に唾を吐くかのようなグラフィティ以下の落書きは、残念と言わざるを得ないが、これは同時に、日本という概念がしばし問われるのと同様、イタリアという存在も絶対的なものではなく、相対性を帯びたものであることを示唆している(絶対性を確立せんと、時として暴挙に出るのがフランスと言えようか)。今回のように、旅行者が比較的少ないところを旅するということは、旅行者向けの化粧が十分に施されていない分、生活や文化のよりありのままの姿を目にすることになる。その姿はガイドブックにあるような完了形のものではなく、現在進行形のものであることに気づき、歴史の国イタリアのそのまた隔絶された僻地と思っていた場所にあって、数千キロ離れた東京と変わらぬ現代を共有していることを思い知らされる。

この日は、翌朝にカリアリからローマ経由で帰国便に乗るとあって、市街中心のホテルに宿泊し、その近くのレストランで夕食をとった。ホテルはそこそこの値段がしたし、レストランもサルデーニャ郷土料理を売りにしたところであったが、既に旅のクライマックスはプーラの宿にあったのか、気持ちの高まりをむしろクールダウンさせてくれるようなものであった。


5月8日 カリアリ〜ローマ〜東京 Cagliari-Rome-Tokyo [Sardegna]


カリアリ空港は超近代的なターミナルを擁していた。未来へ向けての経済的な発展を吹聴するかのようなターミナルを目の当たりにすると、最初「離島めぐり」のつもりで訪れた旅行者に対し、島と位置づけられることを自ら拒否しているようにも思えた。この時勢を反映して厳しい搭乗チェックを受けた後、アリタリアの国内線でローマへ向かう。離陸する飛行機からカリアリの街を見下ろしつつ、サルデーニャへの名残を惜しみ、コルシカからの旅の終わりを受け入れる。島の東部、人口が希薄なオリアストラ地方のうねる山並みの上空を抜けて地中海に出ると、やはりここでも平らな青い海がローマまで続いていた。

 

カリアリ都市圏を見下ろす。

  
ローマの空港に降り立ち、国際線のターミナルへ向かうと、コルシカに渡って以来まるで見ることのなかった日本人を、一気に何十人と目にすることになった。ブランド品の店や免税店のショッピングバッグを持った人々の表情は、おそらく日本の繁華街に買い物に来ている時のそれと何ら変わることなく、毎度のことながら拍子抜けさせられる。そんな人波にまぎれて、ゴールデンウィークも明けた日本へと舞い戻った。

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旅行記はこれでおしまいです。
 
 


ローマにて。日本ではまずないだろうが、タラップを使って777に乗る。
まさに777たらしめている巨大なエンジンを間近に見る。
 
 


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